秋風や背丈短き芙美子像〜20年ぶりの尾道
「花のいのちはみじかくて苦しきことのみ多かりき」(芙美子が好んで色紙に書いたという短詩。この詩には続きがあるという説も見かけたけれど、そもそもこの短詩の出典すら不明で、続きとされているフレーズのエビデンスも今のところないらしい。)
私の誕生日は芙美子忌なのだけれど、芙美子ゆかりの尾道は好きな街のひとつだ。10月、ムスメの学校が平日に2日も休みになったので、オットとムスメと一緒に、長らく再訪したいと願っていた尾道へ出かけることにした。
芙美子とは『放浪記』で有名な作家・林芙美子である。……あっ、今あなたが思い浮かべたのは女優・森光子が演じる林芙美子じゃないですか?和服ででんぐり返りをしている人?それは間違いなく林芙美子を演じている森光子です。
私が最後に尾道に行ったのは20年ほど前で、あの時は、今となってはもう連絡の途絶えた友人と出かけたのだった。アラフィフにもなると、べつに喧嘩をしたわけでもなく、ただなんとなく音信不通になって、今生ではもう二度と会わないんだろうなあ……という友達が増える。それぞれの居場所でみんな幸せでありますように、と願う。あ、宗教やビジネスの勧誘の連絡はいりません。
あの時、尾道訪問の予習として原田知世主演の『時をかける少女』をレンタルビデオで観た。エンディングで廊下にパタリと倒れていた原田知世がむくりと起き上がり、さわやかに主題歌を歌いはじめたことに驚いて、それまで胸にあふれていたノスタルジーや「未来人くんは幼馴染くんとヒロインの思い出を横取りしてずるい」といった乙女チックな感想が全て吹き飛んだ。斬新すぎる、大林宣彦とカドカワ映画。
20年前「ベタですが……」と誰にともなく言い訳しながら尾道の書店で記念に買った『放浪記』は、松山から名古屋、オークランド、そしてまた松山と引っ越しを繰り返すうちに行方不明になった。ゆえに詳細まではおぼつかないのだけれど……芙美子が小さな体(大人になっても140センチほどだったらしい)で幼少期から働き詰めだったこと、一家が極貧の間は「妹でも母親でもない」と剣もほろろだった父親違いの姉が、芙美子が作家として稼ぐようになると「子どもの節句の祝いをしてやりたいからお金送ってくださいね」と恥ずかしげもなく母親宛に手紙を送ってきたこと、母親と養父が「今度こそ上手くいくから」と自分たちの商売への出資を繰り返しねだってきたことなんかは、芙美子が気の毒すぎて忘れられない。芙美子に姉のような強かさがあればよかったのに。
オットも30年ぶりの尾道である。30年前のオットはバイクで日本のあちこちを旅していた若者だったのだが、貧乏旅行ゆえ、千光寺公園で野宿をしたらしい。
「そしたら、夜中に二人組のお巡りさんに職務質問を受けたんだよねえ」
当時の思い出を嬉しそうに語るダディに、ムスメは「あたりまえですよ」と冷静に呆れていた。しかし、我がオットは、トトロに出てくるサツキとメイのお父さんそっくりで人畜無害なオーラをまとっていることにかけては定評のある男なので、その時も、お巡りさんに交番へ連れて行かれることもなく「気をつけるんだよ」と言われただけだった。そのまま公園のベンチで夜を明かしたオットが目を覚ますと、ラジオ体操のお年寄りに囲まれていたらしい。シュール……。
私が「この石段で転げ落ちた後みたいな写真を撮る人もいるんだろうねえ」と言うとオットが「写真は撮らなかったけど、30年前、とりあえず石段に寝転んでみた」と言う。先に登り始めていたムスメがチベットスナギツネみたいな顔でダディを振り返った。
尾道には猫があちこちにいて、総じて人を恐れない。危害を加える人が少ないのだろう。
芙美子の文才を最初に見出したのは尾道の尋常小学校の教師だった。彼女に尾道市立高等女学校への進学を薦める。ここでも恩師に恵まれたという。「私は宿命的に放浪者である。私は古里を持たない。」と『放浪記』に記した芙美子が尾道のことを「旅の古里」と呼んでいたのも頷ける。
尾道には「おのみち林芙美子記念館」があるのだけれど、金曜、土曜、日曜、祝日の12時〜16時のみ開館だったので閉まっていた。上記以外の来館希望も受付けてくれるらしいのだが、突然決まった旅だったので今回は見送ることに。
この旅で、俄然読み返したくなって『放浪記』を買い直した。その日からこつこつと読んでいるのだけれど、芙美子……芙美子ってばダメンズを愛しすぎ……。「私は男にはとても甘い女です。」じゃないのよ、芙美子。その一方で「私はもう男に迷うことは恐ろしいのだ。」と書いてある。貧乏と人の弱さを、赤裸々に、鮮烈に、どくどくと脈打つように描ける芙美子の文才が眩しい。ちなみに『放浪記』は小説ではなく日記形式なので読みやすいです。あなたも「ちょっと、芙美子」「おいおい、芙美子」「嗚呼、芙美子」と唸りながら読んでみませんか?