昔の思い出 〜じゅうしまつとの生活〜
昔、子供の頃、実家でじゅうしまつを飼っていた。二階の、トイレに続く廊下にはカウンターがあって、その下に鳥かごを置いていた。
インコやおうむのように言葉は喋らないが、ぴーぴーと早口な、小さな声がかわいい。
猫や犬のように触れ合うことはできないが、夜、巣の中で目を閉じて眠る様子を見に行くのが楽しみだった。
家族で3泊くらいの旅行に行くときは、いつもより水と餌をたっぷりと容器に入れておく。小松菜を多めにつるしておく。
これから3日間、自分たちを世話する人間がいないことも知らずに、いつものように羽をバタバタさせ、餌に向かう鳥たち。
旅行から帰ってきて家に入ると、決まって兄が「ピー(鳥の名前)生きてるかまず確認!!」という。
二階に急いで上がっていって、鳥かごを確認する。元気にさえずり、動く様子に安堵する。
汚い水をとりかえて、餌をたんと与えてやる。元気に動き回るピーたちをみて、家に帰ってきた安心感とまた日常に戻れることの有り難みを感じる。じゅうしまつは結構生命力が強かった気がする。
母が庭で鳥かごを洗っていたとき、一羽だけ鳥を逃してしまったことがあった。
外の世界の広さに、さぞ驚いたに違いない。
あの時、小さな体でどこへ飛んで行ったのだろうか。
しかしながら、当時は母にばかり鳥の世話をさせてしまった。というのも、私たち子供は、ただ餌と水やりと鳥の観察程度しかやらず、「鳥が快適に生活するための環境作り」を維持することには無頓着だったようだ。
2羽だったじゅうしまつが1羽になってしまった時、残された鳥は悲しそうにして大人しくなった。1日のほとんどを巣の中で過ごすこともあった。
やがて最後の1羽が亡くなると、空っぽになった鳥かごを見て喪失感があふれ出す。
鳥かごはしばらくそこに置いたままになっていたが、その後はもうじゅうしまつを飼うことはなくなった。
振り返ると、じゅうしまつがいる生活は賑やかで楽しかった。
動物と共に暮らすということは、豊かな感性を育てることにつながる。動物を愛でることで、愛情、愛着、執着などの様々な感情を自分の中に見つけることができる。
動物に限らず、幼少期に自分以外の誰か、または何かに心を奪われるという体験はとても大事だ。また、心奪われるような体験に対して、大人が下手に関わろうとしてはいけないような気がする。
子どもはそのような体験の過程で、自分だけの世界、オリジナリティを作ることに必死だからだ。
幸い、私の両親は夢を追わせてくれたし、好きなことや、やりたい事に対して干渉するようなことは一切なかったので感謝している。
とにもかくにも、いつか飼う機会があれば、またぜひじゅうしまつを飼いたい。
それかインコかおうむを。