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電影観察

2024/3/28発行 新歓号(1058号)

「最強のふたり」

 ILAC科目「フランスの文学と社会」で2023年度に取り扱われた映画の中に、「最強のふたり」がある。この映画はフランスで製作され、2011年に公開された。出演者はオマール・シーやフランソワ・クリュゼ。フランソワ・クリュゼは、パラグライダーの事故によって全身麻痺となり車いす生活を送る大富豪のフィリップを、オマール・シーは、フィリップの介護役を担うスラム街出身の青年ドリスを演じる。出自が全く異なる2人は、生活様式から音楽、服装の趣向まで両極端だ。それに加え、フィリップの気難しい性格とドリスの陽気で大雑把な性格によって2人は度々衝突する。しかし、次第にお互いを受容するようになり2人の友情は強固なものとなる、という物語だ。作中で使用される曲も大きな魅力だ。コメディアンでもあるオマール・シーのコミカルな演技に笑いを誘われる。

 なんとこの映画、実話に基づくストーリーである。フィリップのモデルはフィリップ(そのまま)、ドリスのモデルはアブデルという男性だ。作中でのドリスによる介護期間は1年間程だが、実際は2004年から10年間務めた。実在の2人が当時の様子や映画について語ったメイキング・ドキュメンタリーを観ることもお勧めする。

 この作品は、人間の関わり合いについて深く考えることができる。とにかくこのドリスという男、どこまでもフィリップに遠慮がないのである。実際は作品と異なる要素もあるだろうが、ドリスのフィリップに対する態度からは、人に優しくすることへの見方が少し変わるきっかけを与えてくれる。ドリスがフィリップをパラグライダーに連れ出すシーンがある。普通に考えれば、フィリップを全身麻痺の原因になったパラグライダーに連れ出すなど、ドリスはただのサイコパス扱いであろう。フィリップはパラグライダーがトラウマなはずで、避けるのが多くの人の感覚である。しかし、その遠慮のなさというのは、悲しい事故を楽しい思い出に上塗りしてあげようとするドリスの思いがあったからだろう。ドリス流、優しさの与え方である。このような2人の関係性から、優しさとは、ありきたりのように相手を気遣い、ただ同意を重ねることではないと気付かされる。衝突を踏まえた上で、相手が纏う殻を破ってあげる役割を担う優しさ、あえて自分らしくいてあげることで相手を楽にさせる優しさを理解することが必要なのだろう。振り返れば、時に自らの優しさが気付かぬうちに保身に帰結していたことに反省する。

 作品によって、介護についての考え方も変化するだろう。作品からは、介護において介護する側・介護される側の立場に固執するのではなく、お互いが相手を唯一の人格を有する人間として接することで、お互いに良い影響を与え合うというメッセージを読み取ることができる。介護は、金銭のやり取りや労働契約によってその道のプロに任せた尊厳ある仕事の一つである。それと同時に、四六時中も一緒にいるとなると、互いの生活に密着する行為でもあるため、それぞれの人格にも密に接することは避けられない。今日の介護現場の多忙さを鑑みると批判されそうではあるが、立場を超えて接することの偉大さに気づく。では、それは具体的にどういったことなのだろうか。それは、「かわいそうな人」扱いしないことといえる。ドリスがフィリップを徹底して「かわいそうな人」として接しない。そしてフィリップもその態度を気に入っている。傍から見れば、ドリスは完全に一般的な配慮が足りていないかもしれない。だが、彼が障害者ネタを出すことがあっても、それはむしろ彼がフィリップの障害者という点をフィリップの一つの要素としか捉えていなかったからである。その意識はフィリップに伝わっているのだろう。事故以降、障害者という枠を通して接してこられたフィリップは、ただの人として接してくれるドリスを心底気に入ったのだろう。

 介護でも同様だが、密に関わるもの同士の難しさにも触れる。やはり関係性は完全にドライなものにできないのだ。雇う側と雇われる側だったとしても、日常生活において相手の行動を補助していれば、お互いが自らを影響されるのは自然なことである。介護の下で関わりすぎることは、深みにはまってしまい支えきれなくなる可能性もある。我々の人間関係でも一緒だ。作中では2人が業務での役割を超えた思いやりがありながらお互いを突き放すような部分もあり、その2つの要素が最終的にはうまく共存する。ただ、作品を鑑賞して感じるのは、理解し合って深みのある関係性を構築するには、どこかの段階で必ずその関係に悩まされる必要があるということだ。悩みも真剣な人間関係でしか得られない果実なのかもしれない。(長谷川桜子)

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