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罪としての労働と慈悲行としてのはたらく

罪としての労働と慈悲行としてのはたらく

保坂俊司 ほさかしゅんじ(中央大学教授)

■「働き方改革」と言うけれど

「あなたは宗教を信じますか?」と問われると、多くの日本人は「信じません」「無宗教です」と否定的な答えをします。そう言っている人も、元旦から初詣に行き、お彼岸にはお墓参りをしています。それは宗教行為ではないのですかと聞くと、これは日本の伝統です、文化ですと言われます。
 そもそも宗教とは何なのかということを考えないで、日本人は宗教嫌いだとか無宗教だとか言っていても、議論が深まらないのではないでしょうか。
 このリレー講演会の統一テーマは「宗教と労働」です。この労働という言葉は、明治に造られた翻訳語ですから、江戸時代以前の人たちには何のことかわからないでしょう。ヨーロッパの概念を日本に取り入れる時に、それまでの「はたらき」「仕事」「お世話」ではどうもピンとこないから、当時の知識階級の人たちが苦労して造った言葉が「労働」なのです。
 実は「宗教」という言葉も翻訳語です。昔から使われていた言葉だったのですが、そこに別の意味を盛ったのです。
 この「宗教と労働」というテーマの背景には、AI(人工知能)時代、言い換えれば高度情報化革命時代の到来ということがあるでしょう。コンピューターで何でもできる時代です。タブレットをピッとやれば人差し指一本で世界中の情報が手に入ります。
 これまでの生産から消費へという一連の経済行為では、生産に時間がかかり、そこに価値がありました。ところが情報が発達すると日本で作らなくてもアウトソーシングして中国で生産する、最近は中国もコストが高くなってきたから、じゃあバングラデシュだ、アフリカだということになってくると、生産ということがあまり大きな価値を持たなくなってきます。
 生産は労働に直結します。誰に生産させるかを考えるだけならば、私たちの労働をどう位置付けたらよいのか、それが日本社会全体で考えなければいけない時代になっています。政府が「働き方改革」と言い出しているのもそうした状況によるものです。働き方改革の一つは労働時間の短縮ですが、ただ短くすればそれでいいのでしょうか。
 生物としての私たち人間が必然的に身に付けたのが生産行動です。私たちは生きるために食料を自分で調達しなければならないからです。狩猟採集の時代は動物と同様に、あるものを取って食べていました。本当の意味での生産の始まりは、あるものを自分のものにするのではなく、ないものをあるものにする、つまり農耕です。効率よく食料を得て生活を安定させる。これが人類の最も優れた特徴であるといえます。犬も猫も食べなければ生きられませんが、猫が鼠を飼育して食べ頃になってから食べるなんてことはありません。やはり生産活動をするのは人間だけです。
 種を播いて育てて収穫する、その過程が労働です。収穫までには時間がかかります。その間は無収入です。耕したり動物を追い回したりする苦労、それが必ず実を結ぶとは限りません。いわゆる危機管理も必要になります。私たちが未来を予測してそこに意味付けをする。過去から学んで先を読む、そういう時間の配分のなかで私たちが生きるために不可欠なのが生産活動であり、それを労働と呼ぶわけです。

■「労働は苦痛」はキリスト教の影響?

人類最初の文書といわれるメソポタミアのギルガメシュ叙事詩の中にこのような話があります。なぜ人間が生まれたかというと、世界を造った神が、造るのは面白かったけど維持が面倒くさいから、自分の似姿を作って世界の維持管理をさせた、これが人間だというのです。嫌な仕事を押し付けられているのが人間なのだというのが、中近東発の労働観です。これがユダヤ教の旧約聖書に取り入れられ、キリスト教の労働思想に結び付いていきます。
 以前、私の研究室の隣に、大島末男先生というキリスト教の大家がいらして、同郷だったこともあって仲良くしていただきました。大島先生が教えてくれたのは、アメリカの先生は定年まではしゃかりきに仕事をするけれども、定年になるとパッとやめて蔵書を寄付したり売ったりし、フロリダのようなリゾート地に行ってトランプなどしながら楽しく過ごして一生を終える人が多い、ということです。自分にはああいう割り切り方はできないんだよね、とおっしゃっていました。
 労働を苦痛と考えるのが今の世界の主流になっています。働き方改革の労働時間短縮というのもこういうところにつながっています。
 その一方で日本人は、労働とは単にお金を稼ぐことだけではなく、仕事そのものに生きる意味を見いだし、自分だけでなく過去から未来へと魂を受け継いで橋渡しして行く、だから単に苦役じゃないという考え方も持っています。
 どちらが一方が正しいというのではなく、このバランスを今の日本人はとれなくなっているのです。生産を人にやらせるか機械にやらせるとなれば、自分の主目的ではなくなります。AIを使って生産性を高めれば、労働をせずに年金生活でハッピーに生きられるのではないかと言っている知識人もいますが、はたしてどうなのでしょうか。はたらくことを行【ぎょう】のように捉えている日本人にとっては、最低生活を保障するから何もしなくていい、と言われて、パラダイスだと思える人はそうはいないでしょう。
 私たちはこういう文化に対してどのくらい自覚があるでしょうか。日本は長い歴史の蓄積があると言いながら、その歴史とはどのようなものかと問われると、ならわしだからとか習慣だからといって言語化しようとしません。だからよその国から、歴史認識が足りないなどと言われるわけです。日本人の自己認識が足りないのは事実でしょう。
 分析する手段としての言葉がどのくらい正確性を持っているかというと、なかなか日本語は困ることがあります。明治という新しい時代を迎えて「御一新」という言葉が叫ばれたのですが、「一新」では権力の断絶が生じるイメージがあるから、これを和らげるために「維新」と言い換えられました。維新とは「維【こ】れ新たなり」で、意味がよく分かりません。このように言葉を都合の良いように作り換えるというのが日本人は得意なのです。
 AI時代は、今までのはたらき方を大きく変える可能性のある時代です。産業革命の時代に今まで手でやっていたことを機械でするようになると、生産力は数十倍になりました。それに匹敵するような大きな変革になりますので、ここで私たちが牧歌的に、生きる意味を労働に求めているというだけでは、自己満足に陥ってしまいます。そういう思想をこの時代にどう生かすか、その可能性は果たしてあるのかを考えてみなければならないと思います。
 近代文明の極致がAIです。あらゆることを機械にさせて、人間は労働から自由になって楽をしようということが、西洋的な労働観の理想です。そういう時代にあって、私たちは、はたらくということをどう考えたらよいのでしょうか。

■「はたらく」は「傍楽」

「労働」という言葉が作られた当初は、資本家に搾取されるというような悪いイメージはそれほどなかったようですが、それでも西洋的に、嫌なこと、つらいことといった意味合いを含んでいました。
 一方、古来の「はたらく」は、語源がどこにあるかははっきりしないのですが、一説として、「傍【はた】楽」(傍を楽にする)だといわれます。他者を楽にするという考え方はとても仏教的です。
 他人を助けるなんて自分にとっては損じゃないかと思ってしまいます。これは近代的な発想、あるいは中国の儒教に近い考え方です。ここが仏教は正反対なのです。人のために自己犠牲もいとわない。たとえば「ジャータカ」(釈尊の前世の話)には、自分の身体を虎に食べさせるという「捨身飼虎」の話があり、その情景が法隆寺の玉虫厨子に描かれていることで知られます。こういう物語は子どもの頃から何度も語って聞かせることで、何世代にもわたって語り継がれてきました。
 「はたらく」というのは仏教の自己犠牲的な精神が他者に奉仕する。他者にとっては私は他者です。この他者が二人だけでなく三人、四人となると、これが縁起ということになります。さらに、他者に先祖や子孫を含めれば、時間的に前後の関係も成り立ちます。横の関係と縦の関係となれば、これは自分の周りの環境ということにもなります。日本人は自然環境を大事にするといわれ、そこに神を見たり仏を見たりするというのは、仏教の縁起思想が根底にあると言えると思います。そこに日本古来の思想、神道と呼んでいるものが結び付いてくるのです。
 この複雑な構造を理解した上で、労働ということを考えてみる必要があろうと思います。
 このように「労働」と「はたらく」はずいぶんと違います。労働は翻訳語で西洋的な意味合いが付いています。しかし言葉ができて百五十年近く経つとそこに新たな文化ができあがってきました。
 労働というと、明治時代後半にヨーロッパの社会主義の影響で「資本家」対「労働者」という対決構図が導入され、さらに大正時代にマルクス主義が伝わって、搾取される負の労働観として使われるようになりました。
 労働とは別に、勤労という言葉があります。勤労にはあまり悪いイメージがありません。勤労奉仕というように、勤労というとすすんではたらく感じですが、労働というといやだけどはたらいているイメージがあります。

労働を評価する時の基準は何でしょうか。生産性でしょうか。時間的な長さでしょうか。それとも質でしょうか。あるいは文化的な意味でしょうか。
 日本のサラリーマンははたらき過ぎという時、それは生産性が高過ぎですか。それとも時間的にダラダラはたらいているだけですか。他に何か意味合いがありますか。ここはあまり議論されていませんが、こうした考え方はきわめてヨーロッパ的です。労働というものに意味付けをしているのです。ただ大事なのは、この意味付けを支えている背後に何があるかです。そこに宗教があると私は思います。
 単にお給料をもらうためだけに我々は仕事をしているというなら、それは寂しいでしょう。ヨーロッパ人は先ほど申したとおり、罰として労働をさせられていますから、その罰を早くクリアするために一所懸命にはたらきます。これはこれで一種のモチベーションになります。
 しかし日本人はむしろ、労働に関わることによって他者が豊かになれば、自分も豊かになると考えます。この他者は世間と言ってもいいでしょう。戦前は国家のためという時期もありましたし、戦後は会社のためという考えも強くなりました。他者のために貢献することが巡りめぐって自分のところに来るという世界観のなかではたらいているのです。だから長くはたらくとそれだけ長くみんなとつながっていられる、孤立感がないから寂しくないのです。
 よく聞くのは、ずっと会社にいるから平日に子どもの顔を見たことがないお父さん。休みの日はゴルフか、用事がなければ夕方まで寝ていて起きると飲みに行ってしまう。子育てをするのは奥さん一人、というような例です。それを見た欧米の人たちはおかしいと思います。仕事は自分のため家庭のためだから、そんなに家庭を犠牲にするまではたらいて幸せなのか、と。
 日本人は勤勉だといわれるときに、そのはたらくとはどういう意味なのでしょうか。
 こんな興味深いエピソードがあります。私がデリーの寮にいました時に、毎日決まった時間に同じ所を雑巾掛けしているおじさんがいました。ある時、三十年前にこの寮にいた佐藤良純先生が訪ねていらしたら、そのおじさんと親しく話しているのです。「先生、ご存じなのですか」と尋ねたら、「ああ、ぼくがいた時に彼は十四、五歳でここに雇われてきたんだ」というのです。つまり三十年以上、まったく同じ所を雑巾掛けし続けていたのです。
 向上心はないけれども同じ仕事を決められた時間にきちっとやる。これは勤勉といっていいのでしょうか。日本人だったら、もっと良いやり方はないだろうかと工夫を重ねて、同じやり方はしていないのではないでしょうか。この「もっと良い」とは、自分が楽をするというだけでなく、もっときれいに、もっと人のためにということでしょう。これは宗教的な価値観の問題です。だから宗教というものがないと、おそらく日本人ははたらくという意味を見失ってしまうと思います。そうなれば単なる奴隷の労働になってしまいます。

■プロテスタントは神に自己申告

暦というのは宗教の大切な要素です。ご承知のとおり、西暦はキリストの生まれた年を元年としています。つまりキリスト教の世界観で作られたカレンダーです。
 ところが日本ではこれを、西洋の暦と言い換えています。ここに日本の姑息なところがあると思うのですが、近代文明というのは言うなれば、近代西洋キリスト教文明なのです。キリスト教のモチーフが基礎になって形成されています。アメリカでも大統領が聖書に手を当てて宣誓します。政教分離していないじゃないかと言うと、アメリカ人は「政教の教は宗教の教ではありません、教会の教です」と言います。
 宗教と無関係な人間はいないし、無関係な文化もない、というのが私の考え方です。賛同してくれない人もいますが。
 そういう視点で見ると、西洋のキリスト教文明には古代があって中世があって近代があり、その中で日本人が恩恵を受けているのは近代です。近代の始まりはプロテスタントが起こった頃にさかのぼります。なぜそこが区切りになるかというと、カトリックとプロテスタントでは、ものの考え方がかなり違うからです。同じキリスト教でも後発のプロテスタントは、カトリックと同じ方向に進んでいたらカトリックに飲み込まれてしまいますので、違う方向へとエスカレートしていったのです。当時の文献を読むと、プロテスタントはカトリックをとても口汚くののしっています。ここで言えないようなことを聖職者が言っているのです。
 そうなりますと労働観もかなり変わります。英語の labor を辞書で引くと、労働や仕事のほかに、骨折りや出産の意味があると書いてあります。聖書によれば神を裏切ってリンゴを食べたアダムに労働を課し、アダムを誘惑したイブには子を産む痛みを課します。つまり労働も罰なら出産も罰と解釈できます。
 中世のカトリック信者たちには教会というクッションがあって、そこで神と交渉することによって、労働をあまりきつく解釈しないようにしたのです。ところがプロテスタントになりますと、神と仲立ちしてくれる教会がありませんから、聖書の教えがストレートにきます。そうなると労働イコール苦役であり贖罪である、自分自身の罪を自身であがない、さらに自身で申告しなければならない。こんなにがんばりましたから赦してくださいと神に伝えるわけです。プロテスタントのものの考え方は強迫観念症などと言われますが、常に神にチェックされている、だから鬼気迫る仕事ぶりだとされます。
 明治になる直前に福沢諭吉がアメリカに行った時の報告書に、アメリカ人は事あるごとにお金の話しかしない、一セントでも多く儲けるように子どもに教育する、何という守銭奴なんだ、というようなことが書かれています。福沢は当時、キリスト教のことはよく知らなかったので、下賤な奴らだと見下しているのでしょう。
 この違いは何かというと、一所懸命はたらくことによって、贖罪のチャンスを与えられた、それまではカトリックの聖職者がうまく処理してくれていたものを、自分の労働を神の赦しを得るために説明する責任が生じたのです。そのために、これだけはたらいてこんなにがんばりましたと証明することになったのです。
 そもそも農業と商業では労働の基準が違います。そこですべての商売に共通するものは何かというと、貨幣です。お金をこれだけ稼いだ、お金をこれだけ殖やしたというために一所懸命はたらいたのです。だからプロテスタントの人は、お金が目的で労働しているわけではなくて、お金によって換算される労働の成果を気にしているのです。稼げば稼ぐほどはたらいたことになり、そうすれば神さまに祝福され、神の許へすっと受け入れてもらえるということです。
 近代の資本主義というのは、このプロテスタントの人たちが作り上げたわけです。その典型がアメリカです。ウォーレン・バフェットやビル・ゲイツといった実業家は、慈善団体などに多額の寄付をしています。倹約家としても知られるビル・ゲイツが五千億円くらいをポンと寄付するのは、自分以上にお金を持っている人がいないのだから、自分が救われなければ他の人たちが救われるはずがない、という論理なのでしょう。節税対策だなどと非難する人もいますけど、日本ではこんな人たちはあまりいません。それは宗教的な背景による意味付けがないからです。
 近代資本主義はプロテスタントの考え方に基づいています。それは単に聖書を読むというだけでなく、頭の中の構造にはめ込まれているのです。これが個人の思考だけではなく、社会や国家のシステムを作るときにも現れてくるわけです。今の大統領は知りませんが、クリントン元大統領などは、数百ある讃美歌をどれでもとっさに歌えました。日本の政治家で般若心経を正確に読める人がどれだけいるかわかりませんが、宗教的背景というのはそのように違うのです。
 文明というのは、宗教によって作られる面がとても大きいのです。それを無視して表面だけを眺めていても事の本質が見えてきません。労働もまた同様です。労働運動の対決などというのはキリスト教に基づく考え方です。もともと労働は嫌だけどしなければいけないこと、その労働を強いるのは悪いやつだと労働者は考えていて、かたや資本家の側は、労働者に贖罪のチャンスを与えているのだ、という対決構造です。その労働の嫌な部分を機械に置き換えて労働から解放されようというのが、今話題のGAFA(四つのIT企業、Google・Amazon・Facebook・Apple の総称)です。こうした世界の中で日本人はどう対応したらよいかというのが課題になります。

■イスラームは商業の宗教

ここで同じように聖書を基本とするイスラームを考えてみます。イスラームにとっては、聖書は大事なのですが、もう旧約も新約も書き換えられてしまったから古いものだといって使わず、ムハンマド(マホメット)が神から受けた啓示をまとめたコーランを用います。ただ、コーランには個人的な問題は書いていませんから、ムハンマド自身がすべてのイスラム教徒の手本です。ムハンマドが救われなければだれも救われない。ムハンマドが百パーセント救われるなら、ムハンマドの通りにやればいいじゃないかということになります。ムハンマドのしてきたことはすべて記録されています。この言行録をハディースと言います。
 イスラームは商業の宗教です。ムハンマドが生まれたメッカは、水は出ますが農地がない交易都市でした。マホメットは農業を知りませんでした。メディナという地でナツメヤシを栽培していて、受粉作業を見たマホメットはそれをやめさせます。理由は「卑猥であるから」。あなたがそう言うならやめますと、受粉をやめたら当然、実がならなくなります。「どうしてくれるんだ」と訴えると、「私は農業のことはわからない。昔のままにしなさい」と答えたというやりとりが伝わっています。
 イスラム教徒は物を生産することを重視していません。だからイスラームの国で国産車を生産しているところはほとんどないのです。物を交換(トレード)することは得意です。これから世界で貿易が盛んになってくると、作るのはどこでもいい、それを回すことに意味があるわけですから、イスラームは活躍の場を広げるだろうと思います。こういう労働観がイスラームでは発達しています。

■労働をポジティブに捉える仏教国

さて、近代文明を受け入れる前の日本人の「はたらく」という労働観について考えてみましょう。
 日本は古来、生きることと農耕することはほぼイコールでした。縄文時代は狩猟採集が中心だったといわれますが、たとえば栗でも実りの時期が違うものを植えるなど栽培の工夫をしていたことが、遺跡の発掘結果などからわかってきています。
 お米の栽培が伝わると、日本社会がお米を作るために発展したといっても過言ではありません。お米を作ることを楽しみ、その結果、豊かになる。いやいやながらさせられているのではなく、このお米のおかげでおいしいものが食べられるしお祭りもできる、というように意味を付加できる。このお米の文化を共有できるのが、中国南部、東南アジア、インドです。お釈迦さまもお米の国の人です。残念ながら大乗仏教は中央アジア経由ですから小麦の文化圏なのです。
 お米と小麦の栽培がどのくらい違うか詳しいことはわからないのですが、いずれにしても、生産行為に手をかければかけただけの結果がついてくるのです。お米や小麦は一粒から何百倍の収穫ができます。一方、遊牧民は家畜を育てるにしても年一回の出産で生まれるのはふつう一頭です。聖書で労働が苦痛だとされているのは、そのあたりに理由があるのではないでしょうか。
 仏教はこうした労働の意味がポジティブに捉えられている地域で生まれたのです。お釈迦さまの父親の名は浄飯王【じょうぼんのう】で、お米に関係しています。日本でいえば「米男さん」というところでしょうか。はたらくことに嫌悪感のない宗教が日本にまで伝わってきて、日本人として違和感がないのは当然です。やればやるほど成果があって、しかもそれが自分のみならず、社会のためになる。ひいては先祖―私―子孫という縦のつながりまで良くしてくれる。そうすると物を生み出すことに積極的な文化が育ちます。
 生産行為に携わることが高く評価されるから、日本人は物を作るのが大好きですし、改良してより良いものにしていくのを得意としているのです。ただ、新しいものを生み出すというのは、ちょっと難点があります。連続性というものを重視しているので、真新しいものを作るのは不得手なのです。
 しかしそんな革命のようなことはめったにありません。革命があって時代が変わったなら、その後から勉強して改良すればいいのです。恐らく今、日本人はそういうところに来ています。AIという革命的な文明が日本にやって来た、これをどう受け入れるか、まだなかなか適応できていませんが、しかしその文明のかたちをある程度理解できれば、自分たちが今まで持ってきた文明とうまく調和させ、新しい勤労哲学を作っていけば、はたらき過ぎや過労死といった問題も避けることができるようになるでしょう。
 ポジティブな労働観というのは、江戸時代の禅僧である鈴木正三の説くように「道」として教えられます。道というのは目標に向かって行くわけですが、自分が最初ではなく、先祖があって子孫がある、過去と現在と未来を結ぶ道でもあります。労働をそのように考えてきたのです。鈴木正三に集約されるような道の思想は、仏教や神道が混ざり合った日本人独自のポジティブな労働観から生み出されたのは間違いありません。

■シク教徒の労働観はアクティブ

ここで欧米以外に目を向けて、インドの労働観を見ておきたいと思います。
 先ほどお話ししました何十年も同じ仕事をしているというのは、カースト制度があるからです。カースト制度は職業を完全に保障する制度です。ただし、Aという職業からBという職業に移ることは絶対にできません。そのAという職業を受け入れてそこに甘んじていれば、生活は保障されます。しかしあまりにも格差があり過ぎて、下層の人たちは気の毒です。
 そうした価値判断は別として、労働をもっと神の救いと結び付けようという宗教が出てきます。ヒンドゥー教を否定して出てきた仏教もそれに近いところがありますが、残念ながら仏教はインドで滅びてしまいました。
 それから五百年ほどして、シク教が生まれます。シク教徒といえばターバンを巻いて髭を生やした人たちです。私がシク教を研究しはじめた頃は、インド国内には人口の二パーセントくらいしかいないのに、世界で活躍するインド人の半数がシク教徒だといわれていました。とてもアクティブに行動する人たちなのです。
 こんな喩え話があります。ヒンドゥー教徒とイスラム教徒とシク教徒の三人が歩いていると、目の前の道に【何か貴重な物?】が落ちていた。それを見たヒンドゥー教徒は、こんな所に落ちているのはおかしいと疑ってチェックしはじめた。イスラム教徒は、ありがたやと言ってお祈りを始めた。シク教徒は、いい物があったと言って拾って持って行った。――
 これはどういうことかというと、ヒンドゥー教徒は、物事を抽象的に考えて、行動に移すということに必ずしも価値を認めません。イスラム教徒は、何でも神のお告げですから、ありがたやと言ってお祈りをするだけで、生産的な行動はとりません。シク教徒は価値判断と行動が一致しているので、パッと拾って自分のものにしてしまったというわけです。
 そのようにシク教徒はとにかく行動的です。インドにおいては機械産業やタクシー運転手など新しい分野に次々と進出していきました。額に汗してはたらくのはほとんどがシク教徒です。それはちょうど日本の鈴木正三のような発想です。

二十一世紀のAI時代、仕事に喜びを感じてそこに宗教的意味を見いだす文化を、若い人たちの生活とどう接合すればよいのでしょうか。
 人間ははたらかなくても生きていけます。けれどもはたらかないと人間性が維持できません。動物としては生きていけるけど、人間として生きていけない、といいましょうか。日本人はとくに、はたらくことによって他者とつながるという文化を作っています。それは他者を思いやる慈悲の心です。悪いことをなるべく避けて、相手に良い思いをさせてあげる、という考え方です。二つの事例をご紹介します。
 トヨタ自動車は、産業革命の申し子のような世界を代表する会社です。現在は自動車にAIを付けて自動運転の開発に取り組んでいます。その最先端の会社が昭和四十年代から毎年、長野県蓼科の聖光寺【しょうこうじ】に幹部が集まり、二日間にわたって薬師寺の管長さんの法話を聞くのだそうです。
 自動車事故で毎年たくさんの人が亡くなっています。トヨタの車も同様です。交通事故が起こるのは、あんなにスピードが出る機械ですから、当たり前と言えば当たり前です。でも人々を幸福にしようと考えて車を製造しているのに、結果的に不幸にしてしまう。このマイナスの部分が生じているのを、大きなプラスを生み出しているのだから多少のマイナスはしかたないと考えるか、あるいはそうは考えないか。いい車を作れば良いと言う時のいい車とは、事故のない車ではないのか……。
 そうした悩みを、トヨタ自動車販売の神谷正太郎さんが薬師寺の橋本凝胤師に相談したところ、お寺を建てて供養しなさい、そしてそれを公にせず陰徳を積みなさいと言われ、実行します。
 会社幹部がこの供養のため年に二日間も時間を割くというのは、会社からみれば大変な損失です。でもこれをすることによって自分たちが生み出したマイナスの要因を少しでも軽減しよう、傷つき亡くなった人たちの魂を慰めよう、そういう他者へのいたわりの慈悲心が、厳しい競争を勝ち抜いてきた会社の、知られざる精神としてあるのです。
 この心に共鳴したのが、アメリカのギル・プラットというAIの天才でした。彼は世界中から自動運転の技術を求められてアプローチを受けてもどこにもなびかなかったのですが、このトヨタの聖光寺の話を聞いて、トヨタに協力しようと決めたそうです。ここに私は日本的労働観の可能性が見いだせるのではないかと思うのです。
 もう一つの例は、百貨店の高島屋さんです。二〇一一年三月十一日の東日本大震災の夜、高島屋は帰宅困難者のために一部店舗を開放しました。高島屋は「不利を求めず」、人が困っている時に値をつり上げたりせず、人のために適正価格で商売をする。社史によると、関東大震災の時にも飛ぶように売れる物を普通の値段で売ったといいます。商売は社会のためであって、我々はその利益をいただくというわけです。
 宗教的な思想を経済的な活動に結び付けた会社というのが、今後注目されていくでしょうし、これこそが日本的な労働哲学の基本になるのではないかと思うのです。
 日本がこれから世界に打って出る時には、宗教的な裏付けをきちんと持った経済哲学を構築して世界に貢献し、日本の反映と個人の利益を得る、そういう考え方が必要であろうと思います。そのためにはやはり、宗教的な意味付けを持った経済活動をしていかなければならないだろう、私はそのように考えています。
(おわり)

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