学生時代から中央アジアというエリアに憧れがあった。特に政治・経済・文化の中心地であるとウズベキスタンには絶対に行きたい!という思いが強くある。けれど、「はじめに」で記述されているような前提知識すら知らないことばかり…。
本noteは、概説書を読んで学んだことのメモである。
地理
・国土面積…44万7400平方キロメートル(日本の1.2倍)
・世界に2つしかない内陸国に周囲を囲まれた二重内陸国(もう1つはリヒテンシュタイン)
・行政上は首都タシュケントと12の州及び自治共和国としてのカラカルパクスタンに分かれている
・タシュケントはサンクト・ペテルブルクをモデルとして、西欧の文化を体現する西欧的都市として建設された
民族構成
・民族別人口構成…ウズベク人:78.8%、タジク人:4.9%、ロシア人:4.3%、カザフ人:3.9%、カラカルパク人:2.2%、タタール人:1.1%
人口
・人口…約3千2百万人
・人口は東部に集中し、人口密度が高い上位3州(アンディジャン州、フェルガナ州、ナマンガン州)は、いずれもフェルガナ盆地に集中している
・国土の10%ほどの灌漑農地やオアシスの周辺で集中的に農業が行われており、残りは広大なキズィルクム砂漠と険しい山々で占められる
・国際河川として、アム川、シル川、ザラフシャン川(尻無し川)
→アム川、シル川流域で行われた大規模灌漑開発でアラル海が干上がり、20世紀最大の環境破壊の一つに挙げられている
→水資源は地域の安定を揺るがしかねない潜在的な紛争要因である
・農業生産はウズベキスタンのGDPの約4分の1を占め、原棉では世界第5位の生産量(2020年)を誇る
→原棉は国民統合のシンボルに位置付けられ、国章に描かれている
歴史
・ソグド人…中央アジアを代表するオアシス都市であるサマルカンドを中心として栄えた
イスラーム化とテュルク化
イスラーム化
・8世紀のアラブ・イスラーム軍の征服活動
・サーマーン朝の時代には住民の8割がムスリムになった
・19世紀にロシア帝国の支配下に入った後も、イスラーム社会は変わらず維持さていたが、ソヴィエト政権になると社会と文化の「脱イスラーム化」が進められた
・ペレストロイカとウズベキスタン共和国の成立を契機に「再イスラーム化」の動きが見られるようになった
→ローカルなイスラームと域外からもたらされたいわばグローバルなイスラームとが交錯している
テュルク化
・999年にサーマーン朝を滅ぼしたカラ・ハン朝時代に、テュルク遊牧集団の継続的な流入が見られ、定住化したテュルク系遊牧民と元来の定住民との融合が本格化し、特に都市部においてはペルシア語とテュルク語の二言語使用が次第に一般的になってきた。
・ロシア帝国のトルキスタン総督府によってテュルク語がロシア語とともに公用語とされた
・ロシア革命後、ウズベキ共和国とタジク自治共和国が創設された。ウズベク語(テュルク語)を母語とするウズベクと、タジク語(ペルシア語)を母語とするタジクは異なる民族として分たれることとなる。
・ペレストロイカ、独立、ソ連解体に伴って、国語としてのウズベク語が定着していくようになった
・ソグド語→ペルシア語→チュルク語→ウズベク語
ティムールとティムール朝
・ティムール朝は基本的にチュルク(トルコ)系イスラーム王朝
・支配階級たる王族とその家臣たちは主に軍人で、チャガタイ人あるいは単にテュルク人と呼ばれた
・ティムール朝滅亡後、マーワラーアンナフルでは再びチンギス・ハンの子孫による以前より長期的な支配が始まった
「ウズベク」はどこから来たのか
・遊牧ウズベクに滅ぼされたティムール朝の創始者のティムールの銅像が、首都にあるのもおかしくない
・↑はソ連時代に定着したウズベク・アイデンティティ(民族起源論)
暮らしと社会
今も息づくイスラーム法
・イスラーム法は、立法者が神であることから、「法」とみなされるものと「道徳」とみなされるものの二つの側面を含みもっている
・ソ連から独立後も世俗主義は憲法において明記されている
・国家法の立法上の法源からも、イスラーム法の主要な法源であるクルアーンやスンナなどは原則的に排除されている
・「二カーフ」と呼ばれるイスラーム法に則った婚姻契約が残っている
その他
・タシュケント最古のバザール…「チョルスゥ・バザール(エスキ・ジュヴァ・バザール」
・ブハラ郊外のナクシュバンド廟
・リシュタン…千年以上の歴史を持つ窯元、陶業地
政治・経済・国際関係