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帯谷知可(編著)『ウズベキスタンを知るための60章』明石書店

ウズベキスタンはソ連から独立した中央アジアの一国である。チュルク系の言語ウズベク語を持つ定住ウズベク人を主たる国民とする国である。人口は近年3千2百万人に達し、中央アジア諸国の中で最も人口規模が大きい。中央アジア二大河川アム川とシル川にはさまれた歴史的に「マーワラーアンナフル」と呼ばれる地域をはじめ豊かなオアシスに恵まれ、サマルカンド、ブハラ、ヒヴァなど世界遺産にも登録されている歴史的都市を有し、首都タシュケントは中央アジアの政治・経済の要とも言われる地政学的位置にある。こと領域は19世紀後半以降のロシア帝国による征服と統治、そして20世紀にはソ連体制のもとで社会主義的な近代化を経験してきた。1991年の独立後は民主化と市場経済への移行を最重要課題として、試行錯誤を繰り返しながら、国づくりが進められてきた。独立から四半世紀以上たち、ウズベキスタンに関する情報もウズベキスタンと関わりを持つ日本人も格段に増え、日本との関係もますます広がり、深化している。

「はじめにー太陽のあふれるウズベキスタン」p3.

学生時代から中央アジアというエリアに憧れがあった。特に政治・経済・文化の中心地であるとウズベキスタンには絶対に行きたい!という思いが強くある。けれど、「はじめに」で記述されているような前提知識すら知らないことばかり…。

本noteは、概説書を読んで学んだことのメモである。


地理

・国土面積…44万7400平方キロメートル(日本の1.2倍)
・世界に2つしかない内陸国に周囲を囲まれた二重内陸国(もう1つはリヒテンシュタイン)
・行政上は首都タシュケントと12の州及び自治共和国としてのカラカルパクスタンに分かれている
・タシュケントはサンクト・ペテルブルクをモデルとして、西欧の文化を体現する西欧的都市として建設された

カラカルパクスタン(wikipediaより引用)

民族構成

・民族別人口構成…ウズベク人:78.8%、タジク人:4.9%、ロシア人:4.3%、カザフ人:3.9%、カラカルパク人:2.2%、タタール人:1.1%

ウズベキスタン憲法
第8条「すべてのウズベキスタン市民はその民族に関わらず、ウズベキスタン国民である」
第4条「ウズベキスタンは国内に居住する諸民族とその言語、慣習、伝統を尊重し、その発展のための諸条件を創出する」

※「フェルガナ事件」のように、民族間の軋轢が大きな衝突に発展した事例もあったが、独立以降は、国内で民族的差異に由来する対立や軋轢が極端な形で表面化したことはない

人口

・人口…約3千2百万人
・人口は東部に集中し、人口密度が高い上位3州(アンディジャン州、フェルガナ州、ナマンガン州)は、いずれもフェルガナ盆地に集中している

wikipediaより引用

・国土の10%ほどの灌漑農地やオアシスの周辺で集中的に農業が行われており、残りは広大なキズィルクム砂漠と険しい山々で占められる
・国際河川として、アム川、シル川、ザラフシャン川(尻無し川)
→アム川、シル川流域で行われた大規模灌漑開発でアラル海が干上がり、20世紀最大の環境破壊の一つに挙げられている
→水資源は地域の安定を揺るがしかねない潜在的な紛争要因である

wikipediaより引用

・農業生産はウズベキスタンのGDPの約4分の1を占め、原棉では世界第5位の生産量(2020年)を誇る
→原棉は国民統合のシンボルに位置付けられ、国章に描かれている

歴史

・ソグド人…中央アジアを代表するオアシス都市であるサマルカンドを中心として栄えた

ソグド人は統一国家を作らず、北イタリアの商業都市国家のようにお互いにライバル関係にある独立国家群であった。8世紀初めにイスラーム勢力が侵攻してきたときも、共同して対抗することがなかった。…(中略)…言語や文化を共有するこれらの独立国を、当時の中国の人たちは昭武九姓の国々と読んでいた。代表はサマルカンド(康国)、ブハラ(安国)、タシュケント(石国)、シャフリサブズ(史国)であった。

p59.

イスラーム化とテュルク化

マーワラーアンナフルとは、おおよそアム川とシル川に挟まれたウズベキスタン中央部と指す。現在、住民の大多数はイスラーム教徒であり、チュルク諸語に属すウズベク語を母語としている。元来この地にはイラン諸語に属すソグド語を母語とし、イラン起源のゾロアスター教やマニ教、インド起源の仏教などを信奉する人々が居住していた。この地のイスラーム化とテュルク化はどのように進行していったのであろうか。

p66.

イスラーム化
・8世紀のアラブ・イスラーム軍の征服活動
・サーマーン朝の時代には住民の8割がムスリムになった
・19世紀にロシア帝国の支配下に入った後も、イスラーム社会は変わらず維持さていたが、ソヴィエト政権になると社会と文化の「脱イスラーム化」が進められた
・ペレストロイカとウズベキスタン共和国の成立を契機に「再イスラーム化」の動きが見られるようになった
→ローカルなイスラームと域外からもたらされたいわばグローバルなイスラームとが交錯している

テュルク化
・999年にサーマーン朝を滅ぼしたカラ・ハン朝時代に、テュルク遊牧集団の継続的な流入が見られ、定住化したテュルク系遊牧民と元来の定住民との融合が本格化し、特に都市部においてはペルシア語とテュルク語の二言語使用が次第に一般的になってきた。
・ロシア帝国のトルキスタン総督府によってテュルク語がロシア語とともに公用語とされた
・ロシア革命後、ウズベキ共和国とタジク自治共和国が創設された。ウズベク語(テュルク語)を母語とするウズベクと、タジク語(ペルシア語)を母語とするタジクは異なる民族として分たれることとなる。
・ペレストロイカ、独立、ソ連解体に伴って、国語としてのウズベク語が定着していくようになった
ソグド語→ペルシア語→チュルク語→ウズベク語

ティムールとティムール朝

ティムールは、モンゴルのチンギス・ハント並び称されるアジアの英雄である。このティムールの華々しい軍事的成功、およびティムール朝領内に栄えた高度な学芸は、今もウズベキスタンの人々の誇りである。

p71.

・ティムール朝は基本的にチュルク(トルコ)系イスラーム王朝
・支配階級たる王族とその家臣たちは主に軍人で、チャガタイ人あるいは単にテュルク人と呼ばれた

独立後の国づくりを支えた、上からのナショナリズムは文化や学術の分野にも強力な指針を与え、ロシア帝国・ソ連統治時代を「植民地時代」として断罪したことから、それらの時代を飛び越えて、民族と国家の正統性は「遠い過去」に求められることとなった。ティムール朝はその「遠い過去」の栄光の頂点であり、ティムールとティムール朝研究はウズベキスタン歴史学の花形となった。

p112.

・ティムール朝滅亡後、マーワラーアンナフルでは再びチンギス・ハンの子孫による以前より長期的な支配が始まった

「ウズベク」はどこから来たのか

もともとこの地に居住していて歴史の流れの中でテュルク化された人々や、草原地帯から移住したテュルク系遊牧民など、遊牧ウズベクがやってくる前からこの地に居住していたテュルク語を母語とする人々も、現在のウズベク人の祖先なのである。

p79.

・遊牧ウズベクに滅ぼされたティムール朝の創始者のティムールの銅像が、首都にあるのもおかしくない

ウズベク民族の祖先とは「アム川とシル川の間の地域(マーワラーアンナフル)で歴史的に人口灌漑農業に従事した人々」だと考えるのである。

pp115-116.

・↑はソ連時代に定着したウズベク・アイデンティティ(民族起源論)

暮らしと社会

今も息づくイスラーム法

・イスラーム法は、立法者が神であることから、「法」とみなされるものと「道徳」とみなされるものの二つの側面を含みもっている

(ソヴィエト体制に組み込まれ)過酷な反イスラーム政策が開始されると、イスラーム知識人の逮捕・処刑、宗教書の廃棄、モスクの閉鎖や倉庫への転用などともに、イスラーム法廷もまた廃止された。さらに、これと期を一にして、世俗的なソヴィエト法廷が裁判権を有する唯一の国家機関とされた。こうして、中央アジアのイスラーム法と信仰実践は急激に活力を失い、ソ連時代をとおして社会主義的な世俗主義がこの地に根づくことになった。

pp170-171.

・ソ連から独立後も世俗主義は憲法において明記されている
・国家法の立法上の法源からも、イスラーム法の主要な法源であるクルアーンやスンナなどは原則的に排除されている

現代の中央アジア諸国では、イスラーム法的な要素が捨象された世俗的な国家法により社会が統治されているという前提があることを忘れてはならない。しかし、各国のムスリム社会からイスラーム法が完全に根絶されることはなく、その道徳としての側面の一部は「誇らしい民族文化」というある種のナショナルな感覚と結合しながら、今も庶民生活の中に「慣習」として息づいている」

p171.

・「二カーフ」と呼ばれるイスラーム法に則った婚姻契約が残っている

その他

・タシュケント最古のバザール…「チョルスゥ・バザール(エスキ・ジュヴァ・バザール」
・ブハラ郊外のナクシュバンド廟
・リシュタン…千年以上の歴史を持つ窯元、陶業地

政治・経済・国際関係

ウズベキスタン初代大統領イスラム・カリモフの「神話化」とも言うべきプロセスが進行している。…(中略)…抑圧的なソ連体制からの解放と独立の達成、独立後の数多くの困難の克服、独立国としての基盤づくりと優れたイニシアティブ、民主主義的祖国の安定と発展、それらを脅かす勢力との正義の闘いーこれらが様々な場面で繰り返し語られるモティーフある。そして、その中でカリモフは、建国の「父」、ウズベク民族の偉大なる「父」なのであり、父が築いたものを父亡き後に残された「子供たち」が受け継いでいくのだというイメージがいくつもの手段や経路で美しく演出され、拡散されている。

pp292-293.


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