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【ゆるゆる読書感想文】芥川賞受賞作『サンショウウオの四十九日(著 朝比奈秋)』の魅力を伝えた~い!

はいこんにちは。
いつもはYouTubeの旅行動画に合わせて旅行記事を出しているのですが、今週は自由研究の動画を出すので記事づくりが面倒だから読書感想文を書いていこうと思います。

今回読んだのは芥川賞を受賞した『サンショウウオの四十九日』。作者は朝比奈秋さんですね。『植物少女』など様々な作品を出している方ですが、作品論的な視点で語るのは違う気がするので今回は省略。

そうです。私はテクスト論支持者です。

作品論:作者の背景や生い立ちも含めて作品を解釈していこうね~みたいなヤツ(たぶん)
テクスト論:作者とか他作品は考えず、作品だけで解釈しようね~みたいなヤツ(たぶん)

参照元:私が大学時代に受けた文学史の講義の記憶

いや、そんな難しい話はどうでもいいんです。

私は「なんか純文学ってむずかしい~」って思っている方々に「お~なんか純文学わかる気がする」というイメージを持ってほしいんですよ~。

というわけでまずは簡単なあらすじから。

主人公はという双子の姉妹。ふたりは結合双生児なんです。結合双生児とは身体の一部が繋がった状態で生まれてくる双子のことですね。

作中でも挙げられていましたが、腰から下が繋がったベトちゃんとドクちゃんが有名でしょうか。

杏と瞬は身体がまんなかで繋がっています。身体の中心には不規則な境界線があり、ぱっと見はひとりの人間のように見える。おかげで両親は彼女らが五歳になるまで、妹である瞬の存在に気づかなかったんですね。

さて、物語はかつて父の口により語られた、父親兄弟の話から始まります。父には勝彦という兄がおり、父はその兄から生まれたというのです。これは叔父(勝彦)が実際に父を妊娠していたわけではなく、胎児内胎児という、片方の胎児にもう片方の胎児が入り込んでいる症例。

父は叔父の体内にいる間、叔父から栄養をもらって過ごしていました。その影響かなんなのか、元気な父とは違って叔父は虚弱体質であり、やがて亡くなってしまいます。

はい、ここです。叔父の死をきっかけに、この作品が潜めていた息をゆっくり吐き出していきます。かっこいいこと言おうとして失敗したけど言わなきゃバレないか。

杏と瞬は脳の一部が繋がっており、ひとつの身体を使っているわけなので、記憶や感覚を共有しています。片方が寝て夢を見れば、その映像が流れてくるのです。えっちなこと考えてたらバレちゃいますね。

そういう人生を歩んできた二人は「意識とはなんなのか」について考えます。考えて、哲学書や解剖学書、結合双生児の前例を読みあさりますが、答えにたどり着けたという様子ではない。

その理由として、書籍に書かれている内容は結合双生児を「症例」として医学の側面から見たものであり、当事者の心情面にフォーカスしたものではなかったからです。

ああいうのって専門用語ばっかりで普通に意味わかんないですからね。(無知)

読者はここで、「個」の境界線とはどこなのか、そもそも境界とはなんなのかという問題をふっかけられます。

一体の身体に一つの意識として宿り、独占している多くの人間は他人との間に境界があることをなんとなく認識していますよね。反対に、他人と思考が繋がっている、と比喩的に思うことはあってもそのままの意味で感じることはありません。

以下の文章は杏が読みあさった(?)内容の一つ。

生まれてからずっと思考や感情が共有され続けるなかで、どうして独立した意識と人格を保っていられるんでしょうか。それとも意識は思考や感情とはまったく別のものなんでしょうか。それなら、意識は一体、自分のどこにあるんでしょう。

『サンショウウオの四十九日』57ページより引用

杏は「意識は臓器と独立して存在している」と結論づけていました。脳に意識があるのではなく、脳の動きというのは脳が代謝を行った結果生まれるものでしかないというのです。

以下、本文より引用。

意識はすべての臓器から独立している。もちろん、脳からも。つまり、意識は思考や感情や本能から独立している。生きていくに従って、だいたいの人は意識が知性や感情や本能などに癒着していくのだろうが、それでも元から独立している

『サンショウウオの四十九日』58ページより引用

この感覚は、「一つの意識で一つの身体を独占している人たち」にはわからないそうです。
臓器からも独立し、思考や感情や本能からも独立しているのだとしたら意識はどこにあるのでしょう。哲学っぽくなってきましたね。

さて、杏と瞬に似た関係を持つ父と叔父。そしてその叔父の死が装置となり、意識やその境界、果てには死について考えを深めていく。似て非なる二つの要素が、叔父の葬儀のストーリーに伴って移り変わり、綺麗なストーリーラインで結ばれているのです。

ちなみに装置というのは、物語が動き出すきっかけというか、トリガーみたいな意味です。たぶん。

えっ?「じゃあ最初からそう言え」って……?
だって文豪がみんな装置って言葉使ってるんだもん!なんかかっこいいからしょうがないだろ!!!!!!

この作品はときおり二人の意識が混ざり合っているような描写が挟まります。
小説において「視点を混ぜる」という行為は読者を混乱させるのでもちろんNGなのですが、二人の意識を混在させるという大胆な手法は、この作品においては明確に手法として確立されていますね。

関係ないですが、この手法が本作における「目新しさ」のひとつとして評価されている気がします。

その描写があるからさっき言及した意識の境界の話を、読み手である私たちがまるで自分のものであるかのように考えることを強要することができるのです。
自分の肉体と意識のことを考えることを止められなくなるんです。

でも、みんな一度は考えたことがありますよね?
自分ってなんなんだろう……って。ないですか?

この作品はただの結合双生児の物語ではないんです。「結合双生児」はこの作品の問いである「意識とはなんなのか」、もっといえば「お前が意識だと思ってるそれって、どこまでが意識と呼べるの?」、最終的には(これは私の深読みかもしれない)「お前って本当に生きてるの?」という問いを、喉元に突きつけられているような感じです。違うかな。

あっでも文学ってのはそもそも様々な解釈が生まれるものなので~(早口)

でも、力のある作家さんって、「こういう解釈をしてほしい」っていう部分はそういう解釈ができるように書くんですよ。だから、「あ~これってこういうことかも」って思う部分は、作者さんが意図して様々な解釈を生む書き方をしているんですよね。

純文学が難しいと思われる一因ですね。だから「え~こういうことなのかな~?」って部分はあなたの解釈を尊重してあげてください。

はい、ってなわけで「サンショウウオの四十九日」の読書感想文でした。
タイトルの意味を考察しようとも思いましたが、そのまんまです。


↑このマークあるじゃないですか。陰陽のあれですね。

これは相克相補という意味合いを持ち、補い合い、そして競い合うといった意味合いを持つと作中で説明がありました。杏と瞬のようであり、同時に父と叔父のようでもありますね。
杏はこれを二匹のサンショウウオに見立てる描写があります。相克相補のサンショウウオ、そして片方のサンショウウオである叔父の死。

なんか当たり前のことを得意げに説明するのが恥ずかしくなってきたのでここまでにします。

最後に私の意見を。
ここでは取り扱われたテーマの中から「意識」に焦点を当てて考えています。

杏は「意識とは臓器、感情、思考から独立している」と考え、実際、終盤では瞬の意識が臓器から独立したような描写がありました。
そして「このままでは感情、思考が失われる」とも。

思考がなくなった意識は果たして意識と呼べるものなのか。
私たちが意識と呼んでいるこれは、単体の存在としてどこまで洗練することができるのでしょうか。そぎ落とされた感情や思考には、意識の成分が癒着しているのではないか。

そうだとしたら「意識」は思考、感情を含むものであり、そうだとしたら思考と感情を生み出す脳に依存せざるを得ず、結局は臓器から独立した存在とは言えなくなってしまいます。

そもそも、ひとつの身体にひとつの意識を宿す私たちと、ふたつの意識を宿す彼女たちでは、意識の解釈が違うのではないでしょうか。元も子もないこと言ってすみません。

でも、言葉というものが、「それ以外のもの」でしか定義できないように、意識というのも「意識以外のもの、以外のもの」でしか定義できないのではないかと思います。

パズルのピースみたいなことです。
手元にりんごの形のピースがあるとします。あなたが持つりんごを説明するには、隣接するすべてのピースをはめ込み、「この空いた部分がりんごだよ」というしかないんです。

その境界線を持たない、もしくは曖昧な彼女たちとは根本から感覚が違います。この作品は、ひとつの身体にひとつの意識を宿す私たちの誰にもわからない全く新しい視点から、意識を語ることに成功しているのです。


というわけで今回はここまで。
構成も何も考えずにただただ感想を書き連ねてしまいました。

あくまで私の解釈なので、おのおのの感じ方で解釈してください。

普段はおでかけの動画と記事を載せています。気が向いたらよろしくです。

♥などもろもろよろしくお願いします。
それではまた。

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新代 ゆう(にいしろ ゆう)
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