学校教育に決定的に欠けているものの一つ ⑫ 「児童・生徒の持つ楽観性が報われる環境」
保育園や幼稚園の卒園。それは寂しさ、切なさもあるが、同時に小学校新入学への期待・希望をにじませるものである。
「一年生になった~ら♪」という唄があるが、まさに保護者にとっては、そのイメージ通り、「明るく楽しい未来」を期待するものであることは当然だろう。
真新しいランドセル、学習机、入学式用の洋服。お祝いの会や品々。それらが益々期待を膨らませてくれる。
しかし。
その数か月後には学校へ行くことを渋り、「なぜ学校へいかなければならないの?」と暗い顔で保護者へ問いかける子どもが少なくない。
実はそれは、「入学前」から始まっている。
入学前に行われる新入学児童と保護者に対して行われる説明会。
初めて小学校(体育館)に入った子どもたちは、「元気いっぱい」「l興味津々」である。
体育館の中に積んであるマットの上に登ったり、フロアを走り回ったりするが、それは決して眉をひそめるような光景ではない。むしろ新しい環境に対して不安を抱く保護者たちにとっては、ほっとするものである。
しかし、これに対し、教務なり校長なり、いわゆる小学校の「お偉いさん」は、実に不寛容な態度を示す。
明らかに不快感を示し、「小学校では、きちんと席に座ることをしなければいけません」というようなことを言う。
(結局、この校長たちは数か月後に、登校を渋る子どもたちに、「つくり笑顔」で接しなければならなくなるが、もうそのころには事態はどうしようもないほど悪化している)
その後も、子ども(保護者)たちの淡い期待は「裏切られ続ける」。
保育園のように朝、登校しても先生が笑顔で迎えてくれるなんていうことはない。
「こうしなさい」「ああしなさい」「これはダメ」「あれはダメ」という規則ばかり。
「これを覚えなさい」「これをやってきなさい」と覚えることばかりを強いられる。
「できない人はのこりなさい」「食べられない人は食べるまで遊んではいけません」「正直に言うまでかえしません」「だれが一番かな」と、順番をきそわせることと罰ばかり。
本来、「学習」とは、自分で「なんでかな?」という興味関心を持ってスタートして、「こうなのかな?」という試行錯誤を手掛かりにし、「やっぱりこうだった」という満足感や「いや、ちがう。だったらこれは?」という振り返り経験が根幹でなければならないはずである。
そういうプロセスが一切なく、前述のような一方通行の強制だけであったら、子どもが本来持つ「楽観性」が報われるはずがない。
結果が「不登校」や「いじめ」という拒否反応である。
初日に自由奔放に楽観的に過ごす子ども達の姿をどうとらえ、それを伸ばしていけるような構想を持ってプランを構築するか? その価値観と計画実効性という「懐」が教育側には求められるだろう。
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