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#46有能さ無能さは学問的にも幻想と言えるのか?

 こんにちは、人馬交流分析士のりょーじ(@Horse Value)です。人馬交流分析って何?りょーじって誰?それをやって何になるの?という疑問への答えは#1をお読みください!

 さて、#40ではH.O.R.S.E.理論と交流分析の関係のお話をしてきました。大まかにお話しすると、僕が馬との交流で得た気づきである「人間は本来H.O.R.S.E.だよね」という理論と交流分析の人間観がすごく似ているよ、というお話をしました。

 ※H.O.R.S.E.理論について詳しく知りたい方は、#7や#28、#29を読んでください!

 ※交流分析って何?という人は#30~#39を読んでください!

 とはいえ具体例を交えていかないと中々分からないと思いますので今回から、僕が学びを得た馬と人との交流を、交流分析を用いてより分かりやすく説明していきます。

 今日のラインナップはこちら!
・自分の無能さに嫌気がさす(#13)という悩み
・馬はレッテルを貼らない
・レッテルを貼る、とはどういうことか

 今回は、#13でお話しした僕と馬との心理的交流を取り上げていきたいと思います。これによって「体験→気づき」のプロセスがより鮮明になり、その時に僕が感じたことをより皆さんに分かりやすい形で説明できると思います!

 早速行きましょう!

自分の無能さに嫌気がさす

 
 人間誰しも有能さ、無能さというものに囚われたことがあるでしょう。誰かに有能だ、無能だというレッテルを貼られたことがあると思います。

 「あなたは本当にダメだねー」と言われて育った人は、何かきっかけがない限りそのレッテルを信じて自己認識します。

 そして「自分って本当にダメだな」という思いがそんな現実を引き起こし「やっぱりダメだな」とそれを強化していくことが多いのです。

 得意、苦手というのも同じような種類のレッテルですがそれはある程度、人の傾向としてあります。でも有能さ、無能さは本当に幻想だと思います。

 #13でお話したように「人間は唯一無二の存在である。そして、その時々によって必要な在り方や能力は違うのでどんな人も必要である。」のです。これを信じられたら有能・無能さなど無意味だということが一瞬で理解できますね。

 例えば、怒りっぽい人は一緒にいると「トラブルが起こると嫌な場面では有害」ですが「何か文句を言ってほしい、守ってほしい場面では有益」です。

 同じ怒りっぽいというのでも色々なのでさらに適切な場面や関わり方が違ってくるのです。

 このような例に表されることを、実は自我状態の考え方は前提としています。

 これまで説明してきたように、自分が持つ5つの自我状態は、どれが良いとか悪いとかではなく、その時々によってどのように在り、表現するのかが重要とされていました。

 さらに、エゴグラムのところでお話したようにどの自我状態でいるのか、という傾向は人によって千差万別なんでした。

 先ほどの例に当てはめると、他者に厳しく「〜べき」が口グセのCP(批判的親)が高い人は仲間にとっては「トラブルになりやすいが、しっかり自分達の意見を言ってくれるので頼りになる」というわけです。

 さらにその人はもちろん他のNP(養育的親)の要素も持ち合わせていますし、どの程度持っているかも人によって違うので、その人の特徴が活きる環境は人それぞれなのです。

馬はレッテルを貼らない

 それにも関わらず、人間は有能さ・無能さを固定観念として持ってしまうのです。「あの人はすごい」「自分はダメだ」などと他者についても自分についてもレッテルを貼りがちです。

 ここで、#13でお話しした例について考えていきましょう。馬はレッテルを貼らない、というお話をしました。

 乗馬をしていて全く上手に乗れなかった馬に苦手意識を持っていたけど、ある程度時間が経って再び乗ったら(自分は苦手意識を持っていたにも関わらず)馬は全然気にしてなくてとても上手くいった!と言うお話でした(詳しくは#13を読んでください)。

 ここから分かるように、僕は馬のことを苦手意識の中で捉えていたけど、馬にとっては僕は下手くそで自分のことを邪魔してくる、というレッテルを貼っていなかったのです。

 人間同士の例にこれを変換してみましょう。

 ある日Aさんと一緒に取り組んでプロジェクトをやったら全然上手くいかなかった。自分が悪かったのは間違いない。なんとなく苦手意識を持っていたら一年後またそのAさんと組むことになった。

 想像してみてください。Aさんがかなりできた人じゃないとその2回目のプロジェクトもなかなか上手くいかないでしょう。

一度お互いに苦手意識を持ったらそれを克服することは難しいですよね…

 馬は人間より忘れっぽいとかそういうこともありますがそもそも構造としてレッテル貼りをあまりしない、ということがあります。

 馬は「その瞬間に反応する」ようにできているからです。

 では、交流分析においてこのレッテルを貼るというのはどういう行為なのでしょうか。

レッテルを貼るとはどういうことか

 先ほどの例について考えてみましょう。Aさんに再会したあなたはどのような態度を取るでしょうか。あなたに再会したAさんはどのような態度を取るでしょうか。

 多くの場合、1回目のプロジェクトでできた関係性を引き継ぐことでしょう。これが既にレッテルを貼っているということなのです。

 例えばいつも無能なあなたにイライラしているAさんという構図で1回目に時間を過ごしていたとしたら、その構図を引き継ぐということです。

 交流分析で見ると1度目にCP(批判的親)のAさんとAC(適応する子ども)のあなたという構図が出来てそのレッテルを自分と相手に貼ったまま次の交流が始まるということです。

この絵に書かれていること全てはレッテルであって事実ではありません!

 それが多くの場合「無能なやつ」「優秀だけど怖い人」という捉え方になって固定化されます。そんな固定化された関係がどのような結果を生むか皆さんなら簡単に分かりますよね?

 1回目と同じような構図に陥りあなたはどんどん惨めな無能な愚か者になって結局プロジェクトもうまくいかないのです。

 馬は違います。「人間には関係なくただありのままに存在する」というニュートラルな感じでいてくれるのです。それによって、人間が彼らに対して新たな気持ちで働きかけることが出来るのです。

石のように「ただある」ことは私たちにとって本当に難しいことです

 人間が誰か知っている人に会う時、馬のようなニュートラル状態を再現することはとても難しいです。どうしても苦手意識を持っていたらそれを忘れて自然体でいることはできないと思います。

 ただ、努力することはできます。自分が苦手な人だな、と思ったら次に会う時には違う自我状態で接してみて相手と違う関係性を築いてみましょう。相手の違う一面を引き出してみることが出来ると思います。

 何かうまくいかない人間関係があった時にそれは自分の在り方が生み出していると考える

 これは交流分析の基本的な考え方です。外にあるすべての問題は自分の内側から来ている、ということを信じてみてください。僕は馬との交流を通じてそれを信じることができるようになりました。

【今日のまとめ】思い込みの眼鏡を外して自分も他人も見ていきましょう。そうしたら無能や有能というのがただの意味のないレッテルだと気づくはずです。

 明日も一日頑張りましょう!


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