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#51自他の境界がなくなる境地とは~人馬一体~


 こんにちは、人馬交流分析士のりょーじ(@Horse Value)です。人馬交流分析って何?りょーじって誰?それをやって何になるの?という疑問への答えは#1をお読みください!

 さて、#40ではH.O.R.S.E.理論と交流分析の関係のお話をしてきました。大まかにお話しすると、僕が馬との交流で得た気づきである「人間は本来H.O.R.S.E.だよね」という理論と交流分析の人間観がすごく似ているよ、というお話をしました。

 ※H.O.R.S.E.理論について詳しく知りたい方は、#7や#28、#29を読んでください! ※交流分析って何?という人は#30~#39を読んでください!

 とはいえ具体例を交えていかないと中々分からないと思いますので今回から、僕が学びを得た馬と人との交流を、交流分析を用いてより分かりやすく説明していきます。

 今日のラインナップはこちら!
・私たちはそれぞれ独立した存在だから分かり合えるわけがない(#19)という考え
・自分と誰かの間にある相互流動性を交流分析で考える
・人馬一体の境地とはどのようなものか

 今回は、#13でお話しした僕と馬との心理的交流を取り上げていきたいと思います。これによって「体験→気づき」のプロセスがより鮮明になり、その時に僕が感じたことをより皆さんに分かりやすい形で説明できると思います!

 早速行きましょう!

私たちはそれぞれ独立した存在だから分かり合えるわけない


 こういう考えは実は現代社会では当たり前、とされていることです。「個人主義」ということが大前提とされる社会で「個人は独立した存在」であるとされています。

 しかし、ここまで何度も見てきたように、そして交流分析が主張しているように、私たちは決して独立した存在ではありません。自分がどんなあり方かという自我状態は関わっている人によって変わるのです。

 自分自身の在り方によって他者の在り方が決まり、他者の在り方によって自分自身の在り方が決まる。もし私たちがその事実を見つめ、それを当然と見なすのなら「自分」と「誰か」を切り離すことはとても難しいです。

 AさんとBさんとCさんがいます。

 「AさんといるときのBさん」と「CさんといるときのBさん」は違う在り方でしょう。
 「CさんとのAさん」と「BさんとのAさん」も違うし、「AさんとのCさん」と「BさんとのCさん」も違います。

 誰といるかによって人は全然違う姿になります。

 でも面白いのはそれだけではありません。今何かのきっかけでAさんが変化したとします。そうするとそれに呼応するように「AさんといるときのBさん」も「AさんといるときのCさん」も変化します。そしてそれによって「BさんとCさん」の関係にもきっと変化が起きるでしょう。

 人間は関係性の中で生きていて1人の変化は周りに影響を与えるのです。

 「人間は社会の網の目の中に生きている」

有名な哲学者ヘーゲルの言葉ですが、まさにその通りだと思います。


自分と誰かの間にある相互流動性を交流分析で見る

 今までお話してきたことを、#19でもお話しした馬と人との交流でお互いが変わっていくという例で交流分析を使いながら見ていきましょう。

 乗馬をしているとき、人と馬との間には交流があります。基本的に人は指示を出して馬はそれに従います。ということは自我状態としてはCP(批判的親)の人間とAC(適応する子ども)の関係性になりがちです。でも、それだけではうまく一体になることはできないんです。

 なぜなら今まで交流分析で見てきたようにCPとACの間でずっと交流が起こると、お互いにCPとACを強めあう関係になります。人間は馬に対してどんどん厳しくなり、馬は人に対してどんどん依存していくのです。

 でもそれでは馬から人間の望み通りの素晴らしい動きを引き出すことはできません。なぜなら馬の自主性がなければ、馬が望んでそれをしていなければ、本当に素晴らしい動きは生まれないからです。

このような力強いパフォーマンスは馬自身が望んでパワフルに行う必要があります

 そのような馬が人間に依存している関係の中で良いパフォーマンスを発揮できないとしたら、明らかにCPの自我状態しか持つことのできない人間のせいなのは客観的には明らかです。でも、そのCPが高い人は馬を責める状態の人なので「馬が悪い」といって自分を正当化してしまうのです。

 僕自身、何度もこういった悪循環に気づかない間にハマって馬を傷つけてしまったことがあります。僕は自分のルールとして「馬を責めない」というのを決めていたので、そう思った時に「違う違う」と自分を振り返ることができていましたが、そうでなければより大きなミスを冒してしまっていたかもしれません。

 厳しいCPしか使うことができない人がある日気づいてNP(養育的親)を使うことができるようになると、ビックリするぐらい馬が変化します。これまでお話してきたように馬はレッテル貼りをせず「今ここ」にあるものに反応してくれるからです。

 そんな自分が変わって馬が変わる体験をすると「本当にありがたいな」と馬への感謝と愛情に溢れてきます。そしてそんな愛情を感じて馬がさらに頑張ってくれる、そんな美しい好循環が生まれてくるという所まで体験できたとしたら…私たちは「愛の世界」に生きることを諦められなくなります。

人馬一体の境地とはどのようなものか

 ここまではCP(批判的親)だけではなく、CPとNP(養育的親)という2つを両方高めることで馬との関係性が変わるよ、というお話をしました。

 この部分は部下の人とどう接したら良いか分からないリーダーの方にも刺さる話かな、と思いますがリーダーシップ論についてお話しすると長くなってしまうので止めておきます。

 実は、馬と人との交流はCPとNP2つを効果的に使いましょう、というだけに留まりません。大切なことは「馬が楽しく前向きに、でも正しく頑張る」ということです。そのためには人間はFC(自由な子ども)やAC(適応する子ども)も効果的に使います。

 例えば「一緒に楽しもうぜ!」という感じや「お願いします!頼りにしてます!」という感じで馬に接することが効果的なこともあります。

 つまり、人は馬に対して自我状態を常にその時に最適な状態にしながら働きかけなくてはいけません。そして、それをどうやってやるかというと、馬の状態を観察することのみによって可能です。

 馬の「その瞬間の自我状態」を感じ取り、それに対して自分の自我状態を変化させ働きかけ、それが馬の「次の瞬間の自我状態」を作り…。という感じのことが起こってくるわけです。

競馬の騎手と馬の間にも同じことが起こっています

 そしてこの循環が0.00000001秒の中で何度も起こってもはや考えさえも超えるところで交流が起こること…。これが人馬一体の状態です。

 お互いがお互いによって変化することが続くともうどちらが始まりだったのかなどどっちでも良くなってただただお互いに合わせていくということが起こるのです。

 そんな人間と馬との境界がなくなって、どちらの望みか分からなくなっていく領域というのが確かにあります。そんな領域を感じると私たちはそれぞれ独立している、ということは当たり前ではなくなるのです。

【今日のまとめ】誰もが関係性の網の中で生きています。そして、誰もがその関係性を素晴らしく美しい好循環に変えることができます。


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