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幼児たる脳、母たる臓

「幼児たる脳、母たる臓」
これは、とあるしがないひきこもりが実生活で経てきた失敗から
せめて有用な自戒を見出さんとする混迷の備忘録であり
また、生物史的に新生の器官である「脳」へ捧げるエレジー(哀歌)です。

ようこそ、脳

PC、スマートフォン、タブレット。
自宅でも、外でも、会社でも。
いかなる場合でもインターネット空間に接続できる現代において
生きることは難しいのだと私は思う。

生存を主目的とし、分別を弁えている臓らとは違い
脳は無制限に刺激を求める性質がある。
しかも、上限無く刺激を得られる「インターネット」
という道具が、現代では大衆レベルで浸透してしまった。
旧来は不便さの仕切りによって、それに"入り浸る"ことは辛うじて避けられていた世界だったが、現代ではいついかなる時でもインターネットに接続出来てしまう。トイレで用を足している最中でさえも。

幼児たる脳、無邪気な赤子。
ちょうど母なる臓器に肩車をされる形で誕生した
好奇心に満ちたその幼い器官は
なるべく遠くまでを見渡し、新たな発見でヒトの次なる成長を促すために
それが抜きんでて発達してくることは、ヒトの遺伝子の設計図の段階で
前もって予定されていたであろうことは薄々察しが付く。

つまり、今の人類は「脳」という新生の発達器官から溢れ出る無邪気な欲望と好奇心を如何に制御し、自在に使いこなせるかが試されている、人類という種族そのものが迎えた進化の大局面であるのだと既に多くの大先生方が指摘されている通りであることを、私生活の上でも体感させられている日々だ。

私の一日が始まらない理由

ここからはもう少し身近な事例で、脳の"青臭さ"について表現してみたい。
私の個人的な体験を出典とさせていただく。

一応、私自身は「スマホを極力使わない」という行動習慣を心掛けている。
目に付いたものは何でもかんでも剣に見立てて振り回して遊びたがる腕白な小学生に、迂闊に包丁なんぞを渡したりはできないのと同じように、少なくとも私の幼い脳にとっては余りにも"過ぎたるもの"だという自覚が、初めてスマホを手にして一週間ほどで骨身まで染みて痛感させられたのが理由だ。もしも私がそのままスマホで遊び続けていたならば、絵に描いたような"スマホ中毒"の人間になっていたと思う。

こうやって気を付けているつもりで
脳の"青臭さ"にやられてしまうことはまだまだ多い…。

例えば、朝起きてすぐにPCを起動し、インターネットでブックマーク(お気に入り登録)しているサイトを一巡し、そこで目にする単語の組み合わせや、謳い文句などに魅入られて、気付けば「検索窓」までも活用し始めて、辿った先でまた新たな関心事が生まれて、そんな調子で次から次に情報的な刺激を求めてしまう。際限なく。黙々と。死んだような眼をして…。朝からコンナ調子で一日を初めてしまうと、なんだかもう丸一日ずっと心身に力が入らなくなる。一日の業務を全て終えて、後は寝るだけのような気さえしてくる。

この現象について私は、人が一日で受けることを想定されている以上の情報刺激、そして感情刺激を朝のうちに受けてしまうことで、脳の疲労が限界を迎えるか、または「これだけ刺激を受けたということは、もう今日という一日は終わったのだろう」と体が勝手に判断して、後はもう夕暮れの家路で「今夜は何を食べようか」という些細な想像を浮かべる分しか頭が働かなくなってしまっているようにも感じられる。

あとは、人間の脳とはそもそも情報や感情を求めて活動を開始し、その道中で人と関わったり、行動の試行錯誤をしてみたり、そうやって様々に心身の栄養となる実際の出来事を吸収し、最終的な報酬として「何かがわかったり」「何かを感じたり」「新しく知ったり」するもののような気がしている。

にも関わらず、インターネットを使ってそれを全て短縮するというズル行為をしてしまっているので、映画やゲームを鑑賞する前に情報サイトでネタバレを読み漁ったせいで肝心の本編が全くつまらないものになってしまうように、自ら人生の体験を黒塗りしていくような、あまりにも空虚なことをやっているのではないかという気がしてくる。

脳には「臓」と違って過剰摂取で吐き戻したりする機能が無いし、異常に陥っても元に戻るまでに非常に時間が掛かるので、かくも"青臭い"器官だ。

以上のような実体験を踏まえて、一日の始まりの「朝」という時間は特に、脳にとって如何に重要であるかが推察されてきた次第だ。

「感情エネルギーの使い先」としても、一人でネットを眺めながら死んだような眼をしてインスタントの喜怒哀楽を甘受し続けるよりも、誰か実際の人様を相手にして、たとえ苦悩しつつであったとしても喜怒哀楽を働かせた方が遥かに充実感が高い。数値で言い表すならばネットコンテンツの1に対して、対人の100というくらいに充実感の開きがある。

なのでもう、有象無象のネットコンテンツの世界でイタズラに感情を消耗し続けることは辞めていきたい。

偉大なる脳

ここまでは脳の器官としての未熟性ばかりを取り上げてきたが
無論、この誕生が想定されていた器官は素晴らしいものでもある。
数多くの全く新しい可能性に満ちているに違いない。

例えば私は、脳を「錬金術の器官」であるとも思っている。
心理学でも説明される感情の「昇華」といった現象に始まり、「ストレス」を起爆剤として人が何か前進的な行動を起こすことや、各感情をそのまま絵の具として活かし、緻密な芸術作品を仕上げることにも役立つからだ。

このように、人の脳はさまざまな心理的材料を活かし、単なる土塊から金塊を生み出す錬金術さながらにして、これまでの臓には決してなしえなかった新次元の効用を生み出せるものになっている。適切に使いこなした場合の恩恵の大きさたるや、現代人が想像する範疇すらも軽く超えていきそうなくらいに。

そこで、この脳という新出器官の未熟性を真摯に受け止めた上で
振り回されずに使いこなしていくのが望ましいということを
ある意味当たり前のことかも知れないが、改めて感じさせられた次第だ。

とりあえず、「朝」という名の一日の開始を担う聖域を万全に整えておくことは、一日全体の質を上げるにおいて非常に有効であるように思える。「始めよければ終わりよし」という諺もあるくらいなので、物事の開始が結末に与える影響とはそれほど大きいのだろう。

根本的に道に迷った時は、もはや「長老」とも呼ぶべき歴史を誇る臓器らの母なる声に耳を傾けてみることで、基本的な私たちの心や、生存に於ける最適解を示してくれることだろうと思う。何か根本的な自問をする場合に、人は頭ではなく胸の方に手を当てるのはそういうことなのだと先人らは語る。

一方で、この人類の生きる新地平、応用的な理性の世界に携わる局面では「脳」という名のまだ青臭い新主人公を相棒に据えて、我々人類は彼と共に進化の道を辿っていくことになりそうだ。脳がそうであるように、人の歴史もまた極めて短いものであり、加えて、原始的な生物性を離れて人が人たる所以というのもまさに「脳」が担っている。ある意味では彼は私であり、私は彼である、同一の存在とも言えそうだ。時に何者よりも賢く、時に何者よりも愚かであるところまで、人と脳とはかくもそっくりである。

せっかく人間に生まれてきたのだから、数々の失敗や苦悩までを含めて
この「脳」を頂く特有の感覚を存分に味わっておきたい。
是非ともそうしようじゃないか、同志達よ。
これはいずれ最上の土産話として、酒の席に花を咲かせてくれそうだ。



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