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戦争を正当化する「レトリック」という名の大量の芳香剤について。「実存」が絡め取られないために「生」の網目を広げ、生き延びるスペースをつくること。


JJさん、すごいの見つけてしまったよ・・これなんだけどね。

プーチンのイデオロギー的教祖、ドゥーギンが「実存」を語っているんだわ。

ファッショ的世界観でめまいがするが、わーくににもスグにこの手のが湧くと思っていいやろうね。

ザッと読んだけど・・・

内容がすごすぎて、飛ばし飛ばし読むので精一杯。これ、田辺元とまったく同じキッツイ芳香剤やね。

戦時中、京大教授だった田辺も、ドゥーギンのような内容の講義を行ってて、若い学生の心をつかみ特攻兵として戦場に送ったんだよね。

そして、田辺が語っているエッセンスはこんな感じだった。

◎悠久の大義のために死ねば、永遠に生きられる。

◎個人は国家を通して人類の文化の建設に参与することが出来るのである。

◎我々が死に対して自由になる、即ち永遠に触れることによって生死を超越するということ。

◎自己が自ら進んで人間は死において生きるのであるという事を真実として体認し、自らの意思を以て死に於ける生を遂行することに他ならない。

佐藤優『学生を戦地におくるには−田辺元「悪魔の京大講義」を読む−』新潮社 2017より


引用元の本で、防衛戦争では「レトリック」が不要だったと佐藤優が述べている。

向こうが攻めてきたのだから、やっつけるというシンプルな論理で「知的操作」がいらないと。

でも、攻め込む側には知的操作が必要になるわけ。だから、戦争に行かせるためにレトリックを用いて若者たちの心を掴み、導いていったと・・・

きっと田辺にも、日本は侵略しているという認識があったのやろうね。だからこそレトリックや方便、大義が必要になった。

レトリックの過剰は、やましい本意を隠すためやわね・・・

ドゥーギンも、ロシアの特別軍事作戦は「目覚め」であるとして、反対するものは「現存在として不誠実」とぬかしている。

敵は病んだ人種、病んだ文明であり、私たちこそは「覚醒した人間存在」であると。

要は、自分のクソを他人に拭かせるために芳香剤をかけてるだけだわね。芳香剤を1リットルかけても、クソはクソだぜ。

ドゥーギンの芳香剤も、田辺の芳香剤も臭すぎてね。

どこぞの安っぽいスピリチュアル・セミナーみたいな内容だけど、神秘、超越、永遠、悠久、正義、民族、目覚め。。。

この辺りのワードに怪しさを感じたり、免疫がなけりゃ簡単に感染、吹き上がってしまうかもね。

これって承認問題にかこつけた「我と汝」の偽装工作でしかない。わーくにも傾斜がかかれば、一気に逝きそうよね。

他人に死を明示的に推奨する思想家や学者、政治家のたぐいを信用しないってのは基本よね。

顕彰や栄誉がなければ、誰も戦争には行かない。だから、国家のための殺人、死は承認されなければならない。わーくにの靖国ムーブもコレ。

あーやだやだ。

もっといえば、レトリックに加えて大きな物語が必要だった。

ナチスドイツの「東方生存権」、イタリアの「ファッショによる新時代建設」、そしてわーくにの「大東亜共栄圏」とか「八紘一宇」ね。

侵略する、させるためには大きな物語を必要としたんやね・・・

ドゥーギンみてるとポストモダンを経て、イデオロギーの時代が完全に舞い戻ってきた感ありありやわ。

絶対敵、大文字の敵、藻類に退化しつつある人間、アンチヒューマン。敵の脱人間化が凄まじいよね。

ドゥーギンの語る「死の超克→民族の目覚め→終末戦争へ」という論理展開は、まさに国家社会主義のそれなんよね・・・

かたや西側メディアは、ロシアを非文明/野蛮、衰退した帝国、奴隷と独裁者の国だという。

2つのナラティブに共通しているのは、敵国の「人間の非人間化」であり、自国の「犠牲者の英雄化」「美化」なんよね。

精神科医の中井久夫が言うとおり、闘う物語は抵抗し難い魅力があり、戦争こそが労働者がマーケットシステムでは得られない尊重や尊敬、実存を闘う物語が満たしてくれる。

「戦争の論理は単純明快である。人間の奥深い生命感覚に訴える。誇りであり、万能感であり、覚悟である。戦争は躁的祝祭的な高揚感をもたらす。戦時下で人々は(表面的には)道徳的になり、社会は改善されたかにみえる。戦争が要求する苦痛、欠乏、不平等すら倫理性を帯びる」

中井久夫『樹をみつめて』みすず書房 2006 より


歴史に戦争が記録されてからこの方、多いに語られた「国家や権力者」の語りと「庇護と支配」の交換の物語。そして、未だ埋葬されぬ戦争の亡霊が私たちの生を捕まえようとしている・・・

実際に、敵国を「非人間化」し、自国を「美化/英雄化」するナラティブの応酬は、ロシアとその支援国、ウクライナとその支援国の間で起きている。

それにしても、中井久夫が語る戦争、芯を喰っている感がパナイね。

裏返していえば、わたしらが今感じている疎外感、承認不全、無力感の増大は、実存に訴える語りに対して容易に呼応しやすい状況といえる。

ここでも弱者の運命を語りなおすナラティブ、生き延びるためのナラティブがいるんよね。

戦争から、支配から逃れること、領域から逃走し、「生」の網の目をひろげ、生き延びるスペースを作っていくこと。

いつも話すことはソレだし、どこかの誰かに伝えたいこともそのことなんよね。

逃げること、留まらないこと、逃走線を引くこと・・・

そもそも「移動の自由」ってのは、はるか大昔、狩猟採集時代から人間にとって根源的な自由と言われている。

アガンベンも自由の中核にあるのが「移動の自由」だと述べていたね。

上へ上へと屹立しながら対立し合う神々のツリーを避け、地下茎がつくりだすリゾーム状のネットワークを通じて逃げだすこと。そして繋がること。

そだね。

「逃げよう!」「逃げたい!」とは、当事者は言えないかも知れない。だから第三者が、そう言って介入する必要が生まれるはず。

身体は、生きている限り刻々と生を肯定しつづけている。

「必死の作戦」や「特攻」におもむく青年が実存を観念していたとしても、「生きるために逃げよ、逃げ続けよ!」という何者かの声が消されてはならないよね。

【参考文献】

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