戦争を正当化する「レトリック」という名の大量の芳香剤について。「実存」が絡め取られないために「生」の網目を広げ、生き延びるスペースをつくること。
JJさん、すごいの見つけてしまったよ・・これなんだけどね。
プーチンのイデオロギー的教祖、ドゥーギンが「実存」を語っているんだわ。
ファッショ的世界観でめまいがするが、わーくににもスグにこの手のが湧くと思っていいやろうね。
ザッと読んだけど・・・
内容がすごすぎて、飛ばし飛ばし読むので精一杯。これ、田辺元とまったく同じキッツイ芳香剤やね。
戦時中、京大教授だった田辺も、ドゥーギンのような内容の講義を行ってて、若い学生の心をつかみ特攻兵として戦場に送ったんだよね。
そして、田辺が語っているエッセンスはこんな感じだった。
引用元の本で、防衛戦争では「レトリック」が不要だったと佐藤優が述べている。
向こうが攻めてきたのだから、やっつけるというシンプルな論理で「知的操作」がいらないと。
でも、攻め込む側には知的操作が必要になるわけ。だから、戦争に行かせるためにレトリックを用いて若者たちの心を掴み、導いていったと・・・
きっと田辺にも、日本は侵略しているという認識があったのやろうね。だからこそレトリックや方便、大義が必要になった。
レトリックの過剰は、やましい本意を隠すためやわね・・・
ドゥーギンも、ロシアの特別軍事作戦は「目覚め」であるとして、反対するものは「現存在として不誠実」とぬかしている。
敵は病んだ人種、病んだ文明であり、私たちこそは「覚醒した人間存在」であると。
要は、自分のクソを他人に拭かせるために芳香剤をかけてるだけだわね。芳香剤を1リットルかけても、クソはクソだぜ。
ドゥーギンの芳香剤も、田辺の芳香剤も臭すぎてね。
どこぞの安っぽいスピリチュアル・セミナーみたいな内容だけど、神秘、超越、永遠、悠久、正義、民族、目覚め。。。
この辺りのワードに怪しさを感じたり、免疫がなけりゃ簡単に感染、吹き上がってしまうかもね。
これって承認問題にかこつけた「我と汝」の偽装工作でしかない。わーくにも傾斜がかかれば、一気に逝きそうよね。
他人に死を明示的に推奨する思想家や学者、政治家のたぐいを信用しないってのは基本よね。
顕彰や栄誉がなければ、誰も戦争には行かない。だから、国家のための殺人、死は承認されなければならない。わーくにの靖国ムーブもコレ。
あーやだやだ。
もっといえば、レトリックに加えて大きな物語が必要だった。
ナチスドイツの「東方生存権」、イタリアの「ファッショによる新時代建設」、そしてわーくにの「大東亜共栄圏」とか「八紘一宇」ね。
侵略する、させるためには大きな物語を必要としたんやね・・・
ドゥーギンみてるとポストモダンを経て、イデオロギーの時代が完全に舞い戻ってきた感ありありやわ。
絶対敵、大文字の敵、藻類に退化しつつある人間、アンチヒューマン。敵の脱人間化が凄まじいよね。
ドゥーギンの語る「死の超克→民族の目覚め→終末戦争へ」という論理展開は、まさに国家社会主義のそれなんよね・・・
かたや西側メディアは、ロシアを非文明/野蛮、衰退した帝国、奴隷と独裁者の国だという。
2つのナラティブに共通しているのは、敵国の「人間の非人間化」であり、自国の「犠牲者の英雄化」「美化」なんよね。
精神科医の中井久夫が言うとおり、闘う物語は抵抗し難い魅力があり、戦争こそが労働者がマーケットシステムでは得られない尊重や尊敬、実存を闘う物語が満たしてくれる。
歴史に戦争が記録されてからこの方、多いに語られた「国家や権力者」の語りと「庇護と支配」の交換の物語。そして、未だ埋葬されぬ戦争の亡霊が私たちの生を捕まえようとしている・・・
実際に、敵国を「非人間化」し、自国を「美化/英雄化」するナラティブの応酬は、ロシアとその支援国、ウクライナとその支援国の間で起きている。
それにしても、中井久夫が語る戦争、芯を喰っている感がパナイね。
裏返していえば、わたしらが今感じている疎外感、承認不全、無力感の増大は、実存に訴える語りに対して容易に呼応しやすい状況といえる。
ここでも弱者の運命を語りなおすナラティブ、生き延びるためのナラティブがいるんよね。
戦争から、支配から逃れること、領域から逃走し、「生」の網の目をひろげ、生き延びるスペースを作っていくこと。
いつも話すことはソレだし、どこかの誰かに伝えたいこともそのことなんよね。
逃げること、留まらないこと、逃走線を引くこと・・・
そもそも「移動の自由」ってのは、はるか大昔、狩猟採集時代から人間にとって根源的な自由と言われている。
アガンベンも自由の中核にあるのが「移動の自由」だと述べていたね。
上へ上へと屹立しながら対立し合う神々のツリーを避け、地下茎がつくりだすリゾーム状のネットワークを通じて逃げだすこと。そして繋がること。
そだね。
「逃げよう!」「逃げたい!」とは、当事者は言えないかも知れない。だから第三者が、そう言って介入する必要が生まれるはず。
身体は、生きている限り刻々と生を肯定しつづけている。
「必死の作戦」や「特攻」におもむく青年が実存を観念していたとしても、「生きるために逃げよ、逃げ続けよ!」という何者かの声が消されてはならないよね。
【参考文献】