「我とそれ」の商品化ドグマと「疎外」を乗り越えるために必要なもの。愛と、中間集団のお話。
これ、知ってるかな?
『新しい階級闘争』、アメリカでかなり売れてるらしいよ。
似たような話、ブレイディみかこがイギリスのブレグジットの際に述べてたね。
アンダークラスが、仕事や表現で尊敬や尊重を受けなくなり「剥奪感情」から移民叩きや、脱EUを支持するようになったって。
ブリティッシュ・パンクやロックは、今や実家が太くて文化資本に富む、日々の支払いに困らないアッパー層の若者のモノになったと。
アンダークラスは政治への異議申し立てすら、する暇もなく働いたり盗んだりして日々を生きている。
アッパーリベラル界隈では、性的多様性や人種で差別することは許されないが、学歴や年収、公営住宅に住んで10代で出産するような層に対して冷淡で、嘲笑的で問題にもされないらしい。
自分の足元の状況と相似で考えさせられるよね。
ほんまね。
「階級対立」を背景にするなら、トランプ現象も、ブレグジットも、Qアノンも、社会主義運動の台頭も、同じ面の上で起きていることが理解できる。
リベラルやPC(ポリティカル・コレクトネス)に対するディス、反知性主義やキャンセル・カルチャーなぞも、まんまその構造から出てきている。
PV(ページ・ビュー)や動員をかけるマーケティングが、劣化した感情をことさら煽るから、プロレスで済んでいた政治がプロレスに収まらなくなっている。
自らを守り、自立しているその足場自体が攻撃対象となり、共有されていた前提条件も掘り崩されていく。
あかんねんこれは・・・
ナショナリズムによる救済も資本の延命と、福祉国家(Welfare State)=戦争国家(Warfare State)としての分配的正義、生権力の強化として現出してるしね。
アートや宗教、闘争文化の再起動がいるんやろうね。とりわけ「愛」なしには、この時節を超えられそうにないわ。
私ら、一人ひとりが人間ではなく「それ」として規定されるグローバルな資本流動性の深化と、その反動としてのネーションや国家を求める復古運動に引き裂かれていく。
「大概が個別」ゆえに、擬似的「我と汝」風に話しかけてくれるナショナリズムやパトリオティズムに帰着するのは既定路線か。
「我とそれ」の商品化ドグマによる孤立化をどうやって乗り越えるかが問われている。
資本市場では、商品を生産するだけでなく「関係」を生産、再生産しとるんよね。
貨幣所有者と商品所有者の関係は、常に貨幣所有者が有利になり、第3次産業のなかでも「感情」や「身体性」をともなう労働は、労働商品所有者であるその人自身と根源的には不可分なのよ。
商品や対象とされた精神、身体には深い「疎外」が刻まれていくのやと思う。
食べても寝ても癒やされない「疎外」をケアできるものは、親密圏での「我と汝」であったり、アニミズム的交換、変身、変容でないかなと思う。
私が私から出て、あなた達に入るにためには、やはり愛やいとおしさ
、切なさが必要ではないかと思うんだわ。
なるほどね・・・親密圏での「回復」は超絶重要よね。
愛のある回復やケアの場がなければ、誰しも「バトル・フィールド」としての社会に出ていくことができない。
あとは、最初に紹介した『新しい階級闘争』でも重要視されていた「中間集団」の再生よね。
孤立化が進みすぎてて「世界は、市場と国家と俺だけ」みたいなグロテスクな状態になってきている昨今。
労働組合、協同組合、宗教団体、アソシエーション、居場所や仲間、そして家族や友人といった親密圏まで。
社会には、もっと雑多で多くのレイヤーが必要なんだと思う。