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矛盾を抱え、生きるのが人間

2022年1月8日(土)朝日新聞 朝刊に掲載されていた、近藤康太郎さんの「多事奏論」のコラムがとても良かった。

朝日新聞の天草支局長を務めつつ、農家や漁師などに勤しんでいる近藤さん。2021年は雑草によるひどい凶作に苦しんだそうだ。

凶作が確定する少し前の夏頃、近藤さんは田んぼのそばでカルガモに出会う。すぐに立ち去ったが、その跡には新たな生命の萌芽があったそうだ。

10個ほどの、まだらぶちの卵が、あぜ道の上、皿形の枯れ草に乗っていた。田回りの邪魔になるし、だいいち、背の高い雑草を放っておけない。卵はありがたく持ち帰り、雑草はきれいに刈っておく……というのが、まともな百姓の行動であると思う。わたしはそうしなかった。卵はそのまま、雑草も切らない。ヘビやハヤブサから隠れるため、ここに巣を作ったんだろうから。
未来の命は取りたくない。育ったあと、堤(ため池)や川で形見えよう。そう思った。矛盾している。理屈ではないのだ。

(2022年1月8日(土)朝日新聞 朝刊、朝日新聞の天草支局長・近藤康太郎「多事奏論」より)

近藤さんの言う通り「まともな百姓」ならば、収穫のリスクの芽を積み、少しでも豊作に向けて行動するのだろう。それはつまり、人間の生命を優先するために、雑草を刈り取り、カルガモの卵を犠牲にするということだ。

だが多くの人にとって、近藤さんの行動を「まともじゃない」と評することはできないだろう。記事を読み、近藤さんの行動に共感した人も多いと思う。

なぜか。

僕も含めて多くの人は、人間が動植物の命を奪うことで生命を維持していることを知っているからだ。何とか生き永らえることができるのは、彼らの犠牲あってのことだ。その「不都合な真実」に目を背け続けてきた。

2020年代、そこに矛盾を感じる人が増えているのだと僕は感じる。

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矛盾を抱えることを、僕は「折り合いをつける」というふうに表現したことがある。

批評家の東浩紀さんは、リベラル支持者のことを「潔癖主義」と評している。

彼の意見に手放しで賛同するわけではないが、折り合いをつけられないことで、連帯が広がらないという悲しい事態が起こっている。

折り合いは妥協であり、ダブルスタンダードでは?と揶揄されることもあろう。

例えば、僕はなるべくプラスチックの製品を買わないようにしている。個包装の食品を買わなかったり、レジ袋をもらわなかったりということだ。

けれど、どうしても「臭い」の発生するゴミなんかは小さなサイズのビニール袋に入れて捨てることがある。でないと、家の中が臭くなってしまうからだ。

しかしその行為が、やがてマイクロプラスチックとなり海洋汚染につながってしまう。

だから、僕の言説は、実際のところ矛盾だらけといえる。自分の理想と折り合いをつけるために葛藤している。

至らないことが多い。それでも、しっかりと考え続けていきたい。


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