過去にビジネスチャンスはないけれど(100分de名著:『災害を考える』)
ビジネスチャンスという言葉がある。
隠れた鉱脈を見つけ、掘り出すことで巨額の利益を得られる。多くの起業家や経営者は、ビジネスチャンスを掴むことに貪欲だ。実際に利益を得た者は「成功者」として広く称えられる。
だが寺田寅彦は、著書『天災と国防』の中で次の警句を発している。
ここで1つ考えなければならないことで、しかもいつも忘れがちな重大な要項がある。それは、文明が進めば進むほど天然の暴威による災害がその劇烈の度を増すという事実である。
(100分de名著:『災害を考える』P14より引用、太字は私)
資本主義を全面否定するほど僕は強力な論理を持ち合わせていない。けれど、昨今の気候変動問題や2011年の原子力発電所の事故を省みると、そこそこに「何かがおかしいのでは?」という漠とした危機感を覚えるのは正直な実感で。
アマゾンは確かに僕らの生活に欠かせなくなってしまったけれど、物流業者の過重労働に加担しているかもしれない。環境負荷を軽くすると言われている電気自動車も、生産過程で大量の二酸化炭素が発生するかもしれない。殆どのエネルギーは再生可能ではなく、不平等なことに誰かが気候変動の煽りを受けいるのかもしれない。
漠とした「かもしれない」で思考停止しそうになるけれど、そこに挫けず、問いと答えを生み出そうとしてきたのが、先人の哲学者だった。
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2021年3月放送、NHK「100分 de 名著」のテーマは「災害を考える」。
東日本大地震から10年、そして世界中に感染流行したコロナウィルスという危機に直面している僕らが、災害をどう捉えていくべきなのか。
監修を手掛けた批評家の若松英輔さんが取り上げたのは、寺田寅彦『天災と日本人』、柳田国男『先祖の話』、セネカ『生の短さについて』、池田晶子『14歳からの哲学』の4冊。日本人が忘れてしまった「つながり」の回復を説いている。
ただし番組で取り上げるのは、いわゆる他者との「つながり」のことではない。
他者との「目に見えるつながりや利害関係にもとづいた「関係」や「交わり」は、ときに非常に脆いもの」だ。
番組で取り上げているのは、直接的な実利を伴わない、
自然とのつながり
死者とのつながり
時とのつながり
自己とのつながり
である。これらを回復すべき「つながり」と捉えている。危機の時代を生き抜くためのヒントになるかもしれないと。
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ただ、こういったものを「つながり」と結びつけることに違和感はないだろうか?
自然とのつながりは、自然との共生という意味合いで何となくイメージできる。だが、死者とのつながりとは何のことだろうか?
柳田国男は次のように記している。
最近になって偶然に、自分で御先祖になるのだという人に出逢ったのである。南多摩郡の丘陵地帯を、毎週の行事にして歩きまわっていた頃に、原町田の街に住む陸川という、自分と同じ年輩の老人と、バスを待つ間の会話をしたことがある。我が店のしるしを染めた新しい半纏を重ね、護謨の長靴をはき、長い白い髯を垂れているという変わった風采の人だったが、この人がしきりに御先祖になるつもりだということを言ったのである。
(100分de名著:『災害を考える』P40より引用、太字は私)
御先祖に「なる」というのがポイントだ。僕らは普通、進んで「死者になる」という言い方を好まない。
ただしこれは、柳田に言わせれば「死者とのつながりが希薄になった」ということかもしれない。
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お盆の時期に帰省し、死者を迎えるという風習がある。
先祖の精霊を迎え供養する。わざわざ生者がいる空間に迎えるということは、死者と生者が完全に分かつものでなく「ともに」過ごすものであるという表れなのだ。
柳田は「死者にも死者としての仕事があり」、「昔の人は誰に教わるのでもなく識っていた」のだと話す。だからこそ先に挙げた老人は、自らが死んだ後に「御先祖にな」り、死者としての務めを果たそうと考えていたのだろう。
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では果たして、死者とのつながりを回復したとして、どんな「良いこと」があるのだろうか。
過去をいくら称えたところでビジネスチャンスはないし、どんな実利も得られそうにない。
逆説的だが、そこにヒントがあるような気がしている。
『先祖の話』には、八十一の文章が収載されています。一つひとつは比較的短く、なかには文庫本で二ページほどのものもあります。これらの文章を通して柳田が私たちに伝えようとしたこと、それは「常民の常識」です。
常民とは、市井に生きる普通の人びとのことです。常識の「常」とは、過ぎゆかないことを意味します。つまり「常民の常識」とは、もしかすると読み書きさえままならなかったかもしれない人びとが、確かな手ごたえをもって識っていたことです。
(100分de名著:『災害を考える』P37より引用、太字は私)
個性が重視され、自分らしく生きることが認められた現在はとても開放的で、僕のように「縛られたくない」人間にとっては生きやすい社会だ。
敢えて昔は良かったなど言うつもりはない。今と昔の対立構造を作るのはナンセンスなことだ。だがやはり、「私」が生きやすくなった一方で「私たち」は生きづらくなったことを認めないわけにはいかない。
「利」がないからと言って、無意味と見做して切り捨ててしまった風習も、その成り立ちや本質を見極めていくと、「私たち」が生きていく上で支えとなるような示唆が得られるのではないだろうか。
ビジネスチャンスはない。
個に還元できるメリットは皆無だ。
災害という、個では立ち向かえない現象に立ち向かうために。個の時代の「常識」から離れて、様々な「つながり」に目を向けるのは重要なことだと僕は思う。
番組はまだ始まったばかり。
3月末まで、じっくりと失ってしまった「つながり」の尊さに浸っていたい。
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*おまけ*
100分de名著『災害を考える』ですが、読書ラジオ「本屋になれなかった僕が」で配信しています。お時間あれば聴いてみてください。
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