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「東山ブルー」を生んだ、東山魁夷の色への向き合い方

昨日、恵比寿の山種美術館を訪ねた。

7年ぶり。前回は会社終わりに、歩いて山種美術館に向かった記憶がある。わりと近かったのだ。

7年ぶりだが、入り口に足を踏み入れた瞬間、「ああ〜、こんな感じだったなあ」という記憶が鮮やかに甦ってきた。いうても、これまで2回しか来たことがない場所なのに。

展示室は地下にある。東京という土地柄もあり、決して広くはない。広くはないのに、それなりにお客さんで賑わっている。前回は平日で、そのときもかなり混んでいた記憶がある。恵比寿駅から徒歩10分で、アクセスはそこそこ不便なのに(みんなタクシー使って来るのだろうか?)、まあまあ混んでいるのだ。

お目当ては、東山魁夷。

「東山魁夷と日本の夏」という企画展だが、基本的には山種美術館に所蔵されている作品をアレンジしたもの。「京洛四季」の連作4点は、確か2017年のときも展示されていたと思う。いや、絶対展示されていた。だって、今回改めて鑑賞した「春静」「緑潤う」「秋彩」「年暮る」はどれも見覚えがあったもの。

特に、人気の作品である「年暮る」はやはり見事だった。京都の家々の瓦屋根にうっすら積もる雪。そして絵全体に素描される小さな雪の粒と、薄暗い明け方。これだけで、年の瀬の澄み切った朝の様子が心象風景として伝わってくるから、東山魁夷はすごい。だてに東山ブルーと言われていない。

今回、印象に残ったのは「緑潤う」という作品だ。

木々と川の色が重なるように、あるいは同化するように描かれていて。ふつうに考えれば木は緑で、川は青なのだけど、色の深み、あるいは不可思議さを思わせる「ブルー」をどう言葉で表現したら良いのだろう。

東山魁夷「緑潤う」(1976年)

東山のすごみは、スケッチにも表れている。

「唐招提寺 壁画『濤声』のための習作」(1974年)では、「動」の波と、「静」の岩がただポンと置かれているだけの作品だ。なのに、波が休みなく打ち寄せている様子が伝わって来るし、それは私の心に押し寄せて来る波のようで、ざわざわが止まらなかった。

こんな力感のない絵のどこに、心を震わせる力が秘められているのだろうか。

偶然、同日の朝に山田尚子監督の映画「きみの色」を鑑賞したのだが、東山魁夷の「ブルー」と、山田が示した色合いは、もはや別物である。どっちがいいかという話ではないのだが(というか、断然、東山の絵の方が良いわけだが)、色のとらえかたが全然違うんだなというのが作品を通じて理解できた。

RGBのように、どの色合いを選択するかコンピュータで打ち込むことができる色と、自然と向き合い東山自身の目で探った色。山田は色と色が混じる瞬間を切り取ってワンシーンに描いたが、東山のそれはもともと濁るように混じり合っている。全く違う。東山の観察眼の深淵さは想像だにできない。

なぜ、山種美術館が混雑しているのか。

それは、本物の日本画家による、本物の作品が展示されているからだ。

図録さえ販売されていないという商売っ気のなさは笑うしかないが、いや、図録がないからこそ、その景色は深く心に刻まれるのではないだろうか。

また来年、あるいは再来年の夏に、山種美術館を訪ねたい。あの景色が現実だったことを確かめるために。坂本龍一さんもたびたび口にしていた、「人生は短く芸術は長い」という格言が改めて身に沁みた。

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