「鑑賞」と編集|“鑑”とバックトランスレーション
菅付雅信の編集スパルタ塾の卒業生有志が集った「EDITORS REPUBLIC」という試み。
半年ぶりに更新されたSubstackのテーマは「『鑑賞』と編集」。僕は執筆に参加していないのだが、さすが広義の編集に携わる方々ということで、読み応えのあるコンテンツが揃っている。
この中で、ひときわ目をひいたのは、「鑑賞は、インプットではない」という渡辺龍彦さんの言葉だ。奇しくも僕たちの“師”であるはずの菅付雅信さんが『インプット・ルーティン』という本を上梓したばかり。もちろん意識しているだろうが、渡辺さんはこのように綴っている。
渡辺さんの言葉に刺激を受けて、僕自身も「『鑑賞』と編集」をテーマに何か書きたくなった。なので、書く。
「見る」と鑑賞は、何が違うのか
日本語とは味わい深いもので、同じような言葉でもニュアンスが異なるものが多い。では、「見る」と鑑賞は何が違うのだろうか。
パッと思いつくのは、理解度の差である。「見る」は表面的な理解に留まり、「鑑賞」は深く理解に至ろうとする。そこに異論はない。だが、本質的な“何か”が抜け落ちているような気がしてならない。
なぜ「観賞」でなく、「鑑賞」なのか
昨日の雨から一転して、陽だまりが気持ちの良い6月19日AM。
だらだらと思考を巡らせていたとき、ふと、僕がノートに「観賞」と誤って書いたことがあるのを思い出した。
「見る」は、「観る」と書くことがある。
そして「観」は「鑑」と同じ“カン”と読むことができる。
ならば、鑑賞は「観賞」であっても良かったのではないか。
だが敢えて、鑑賞には「鑑」の文字をあてている。「鑑」は“かがみ”を意味する言葉であり、そこにヒントがあるのではないだろうか。
「みる」「きく」「よむ」「あじわう」
その全ての行為は「鑑」を通して、自分自身に却ってくるもの。つまり鑑賞と「見る」は行為的には何の差もなくて、鑑賞は行為を通じて自分自身が投影され、あるいは反射して却ってくる双方向的なものだといえるのではないだろうか。
鑑賞は、解釈のバックトランスレーション
先日公開された映画「からかい上手の高木さん」を巡り、以下のポストが拡散されている。
それを受けての僕がリポストしたのは、こちら。
逆の解釈が生まれるのは、
・映画への理解度の差
・映画に対して何を期待しているかの違い
・個々の文化的背景や価値観の違い
・個々のステレオタイプ
など、様々な変数によって変わるだろう。そもそも僕は、作り手(映画監督)が何を意図しているのかというのはあれど、受け手(観客)はいかに解釈しても良いと思っている。そして解釈に正解はない。
鑑賞には「鑑」という文字が入っているという文脈につなげると、多くの人の解釈というものは「自分」がどこかに投影されているものだと僕は思う。考えようによっては、監督の解釈と、観客の解釈というのは必然異なるといっていい。
先ほどの「からかい上手の高木さん」において、ポストの投稿者が「ひねくれた」人格であると結びつけるのは安直だろう。そういうことが言いたいわけではない。
おそらく、鑑賞を通じて得た解釈が、「なぜその解釈に至ったのか」は、鑑賞した本人でないと正確に理解するのは難しい。もちろん「なぜその解釈に至ったのか」をあらゆる分析のもとで“こういうことだ”と結論づけることはできる。
だが、他者の鑑賞の分析行為に意味も意義もない。
鑑賞を経た解釈は、バックトランスレーションして自分の鑑賞体験に再び却ってくる。「ああ、おれはこういう意図で、こんな解釈したのだろう」とある種のメタ認知ができるはずだ。
それを繰り返していくと、自分自身の人間性に気付いていくのではないか。「おれはこういう人間だ。ゆえに、こういうことを考えている」という具合に。
鑑賞は、解釈のバックトランスレーションである。
それが僕が「『鑑賞』と編集」というテーマをもとに言語化した結論である。あなたはいかがだろうか。「鑑賞」を捉え直すことは、鑑賞行為そのものを再考することと同意であろう。
──
僕が前回執筆した回はこちら。
noteにもまとめていますので、ぜひ読んでみてください。