思い込んでいたこと〜旧約聖書と新約聖書の違い〜
アートは好きだけど、美術史に関しては良く知らなくて。
8, 9年前くらいに美術検定という資格を取りたいなと思って挫折して以来、「良く知らないこと」をうやむやにしてきた。
ちょっとずつ学んでいこうと思ったことがきっかけで、木村泰司さん『名画の読み方』を読んだのだけど。
「美術作品は見るのでなく、読むという姿勢が大事」と語る木村さん。
今回のエントリの趣旨とは違うので本書についての詳述は避けるが、「19世紀初頭まで、絵画の世界では『歴史画』『肖像画』『風俗画(日常生活を描いた絵画)』『風景画』『静物画』というヒエラルキーがあった」など、目から鱗の事実が満載で、とても面白かった。
タイトルにも言及した旧約聖書や新約聖書だが、そこで用いられているテーマ(「アダムとイブの神話」など)は歴史画の中で神格化して描かれてきたというのは無自覚だった。肖像画も然り。
(肖像画は、マドリードのプラド美術館の中で腐るほどあって正直退屈してしまったのだけれど、当時からとても重要+貴重なものとして保管され続けてきたんだなあと)
で、お恥ずかしい話なんですが、僕は旧約聖書と新約聖書が根本的に違うものだということを初めて知りました。詳しくは適当にググってほしいのですが、僕はこれまで旧”訳”聖書、新”訳”聖書だと思っていて、どちらも同じテーマが描かれているんだと勘違いしていました。
(この「約」というのは、契約の意味だったなんて…!)
僕は高校時に世界史専攻だったので、間違いなくその違いについて学んだはずなんだけど(そして世界史が大好きでした)、記憶というものは儚いものだということが解ります。というか単純に教養がないという疑惑も。
ただ間違いなく、こういった思い込みは誰しも必ず存在するもので。
僕もこのタイミングで、自ら気付けたことは幸運だったのではないかと思う。いつか息子が世界史を学習していて議論することもあるかもしれないし、海外の友人ができたときに互いの宗教観について語り合うこともあるかもしれない。そのとき、こんな基本的な事項を思い違いしていたら恥ずかし過ぎる。。。
情報過多の時代だから、色んな情報に晒されて、知らず知らずのうちにフィルタリングしてしまっていることは良く知られる話。
人は自分にとって都合の良い情報だったり、脳が受け入れやすい情報だったりを集めがちなので、意識的に、幅広く情報のアップデートをしていかないといけないですね。
こんなレベルの思い込みをしてしまっているので、他人の驚くような思い込みも、笑うことはできないなと思った次第です。「人の振り見て我が振り直せ」ってやつですね。
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