エッセイの表情を決めるのは、書き手の人格だ。
エッセイを書き始めて、150日が経過した。
100本エッセイを書いたときにも、当時の所感をnoteにまとめている。
糸井重里さんの名前をタイトルに拝借したこともあり、予想以上に読んでもらえた。あのとき「半ば仕方なくだが、必死になって日常生活でネタを探すようになった」と書いたけれど、その感覚は今も変わっていない。
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あれから2ヶ月弱が経過して、分かったことがある。
エッセイには、書き手の人格が反映される。
フィクションである小説と違い、エッセイには書き手の本心を多かれ少なかれ滲ませないといけない。
自分のことを「悪く」見せないようにエッセイを紡ぎたくなるものだけど、どうしても「思っている / 考えている」ことを書かざるを得ない。
そこに嘘を混ぜてしまうと、たちまち文章は破綻する。
邪悪なことを考える人が書くフィクションは、そこに邪悪さが溢れていたとしても読み物としてコンテンツになる。だが邪悪なことを考えている人が書くエッセイは、邪悪さが読み手の関心を遠のけることがある。もちろん場合によるが、商業的なエッセイストは多かれ少なかれ、読み手の関心を近付けられる魅力を有していると思うのだ。
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そういう意味で、もっと爽やかに、読み手に心地よいエッセイが書けたらなと思ってしまう。
ウィットに富んだ冗談を織り交ぜて、読み手に笑ってもらえるような文章を書けたらなと。
だけど、それは僕にはできない。
僕の世の中への認知は少しばかり歪んでいて、ありきたりなくせに懐疑的で、線的に結論に至らないものばかり。
こういう文章に感心をお持ちの方もいるにはいるが、商売的なエッセイストになれるための資質としては、何とも心許ない。
ネタを必死で探すことが、エッセイの表情を決めるわけではない。
ネタの良し悪しはともかく、エッセイの表情を決めるのは書き手の人格だ。
人格なんて、どうしたって改変することはできない。改変して、見栄えよく見せることは「嘘をつく」ことと、ほとんど同義だ。正直に書けば書くほど、エッセイの表情は固定化されてしまう。(もちろん、エッセイで嘘をついてはいけないというルールはない。空想や妄想をベースにした一貫性のないエッセイは、それはそれで魅力的にうつる)
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これから、僕は、どんなエッセイが書けるだろうか。
ワクワクするような感覚はない。
自分の内面を色々な角度で探り、至らない点 / 歪んでいる点を再認識する苦行に自ら飛び込んでいくのだから。
とはいえ、苦行を続けた先に見える景色を、ちょっとだけ見たい。
そんな気概だけは持っているので、また明日からエッセイを続けられるのだ。