【三田三郎連載】#特別公開:「人間は酔うと本性が出る」という言説について
※こちらのnoteは三田三郎さんの週刊連載「帰り道ふらりとバーに寄るようにこの世に来たのではあるまいに」の書籍化予定エッセーを先行公開したものです。
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「人間は酔うと本性が出る」という言説について
連日のように深酒をして酔っ払っている私としては、酒飲みに対する世間からの様々なお叱りの声について、どんなものであってもまずは貴重なご意見として真摯に傾聴すべきだと考えているが、時にはどうしても看過できない内容の主張を耳にすることがある。その一つに、「人間は酔うと本性が出るから飲酒はよくない」というものがある。こうしたふざけた主張に対しては、温厚な私でもさすがに憤りの念を禁じ得ないので、この場を借りて徹底的に反論しておきたい。
まず、酔った状態を本性と看做すこと自体が根本的な誤認である。
ほとんどの人間にとっては、素面で過ごしている時間が日常であって、酒を飲んで酔っ払うのはあくまでも束の間の非日常的体験であろう。そして、日常から非日常へと移行した人間がそれまでとは全く別様の振る舞いを見せるようになるのは当然のことであり、決して飲酒時に限った話ではない。
例えば、親に初めてディズニーランドに連れて行ってもらった子供は、それまで見せたことがないようなハイテンションではしゃぎ回るかもしれない。あるいは、重要な試合で劇的なサヨナラヒットを打ったプロ野球選手は、日常生活ではあり得ないほどダイナミックに全身で喜びを表現することだろう。では、ディズニーランドではしゃいでいる子供に対して、親は「タケシ、楽しくてつい本性が出たな」と思うだろうか。サヨナラヒットを打って興奮している選手について、実況のアナウンサーは「山田選手、嬉しくてつい本性が出ましたね」と言うだろうか。
一時的に特殊な状況下に置かれた人間が、平時とは違う挙動を見せるのは当たり前の話であり、しかもそこに表出されているのはただ単に「普段と異なる一面」に過ぎず、それを「本性」とするのは著しい論理の飛躍である。ディズニーランドではしゃぐ子供も、サヨナラヒットを打って喜ぶプロ野球選手も、酒を飲んで奇行に及ぶ酔っ払いも、端的に「いつもと違う姿を見せている」だけで、それ以上でも以下でもなく、決して「本性が出た」などとは言えないのだ。にもかかわらず、飲酒によって人間の挙動が変化した場合に限って「本性が出た」と看做すのは、あまりにも恣意的な解釈であると言わざるを得ない。
次に、もし百歩譲って、酔ったときの姿がその人間の本性だとしても、本性が出ること自体が必ずしも悪いとは言い切れない。
「人間は酔うと本性が出るから飲酒はよくない」と主張する人々は、人間の本性は醜いという認識を前提としているように思える。人間は普段、理性によってその醜い本性を抑えているけれども、酔うと理性が機能不全に陥るため、抑えられていた醜い本性が現れてくる、と考えているのだ。しかしながら、その考えはそもそも大きく偏った人間観を出発点としているために、歪んだ理路を辿ることとなっている。仮に人間に本性なるものがあるとして、それが悪いものとは限らないではないか。むしろ本性は良いにもかかわらず、普段はそれが何らかの事情によって覆い隠されているという人間もいるのではないか。
例えば、私がよく行く飲み屋の常連にEさんという人がいる。Eさんは私がいつ店を訪れても酔っ払っているのだが、とても物腰の柔らかい好々爺といった印象の人物で、親子ほど年が離れている私に対しても丁寧に接してくれる。口調はフランクだけれども、決してぞんざいになることはなく、どんなに酔っても優しさとユーモアは失わない。周りは年下ばかりであるにもかかわらず、決して偉ぶることはなく、いつも自虐を交えた冗談で周囲を笑わせている。飲み屋で会う限りでは、Eさんは絵に描いたような人格者である。
ところが、それはEさんの一面に過ぎなかった。ある日、Eさんが帰った後に、Eさんとは長い付き合いだという別の常連から驚くべきことを聞いた。Eさんは不動産会社を経営していて、普段の仕事ぶりは鬼や悪魔に喩えられるほど冷酷にして無慈悲だというのである。会社の主な業務内容は新築マンション用地の仕入れで、好立地にある古い集合住宅に目を付けては、金に物を言わせてオーナーから買い取り、住人を全員あの手この手で強引に追い出してから、ディベロッパーに高値で売り付けているそうだ。交渉態度は強硬かつ不遜、仕事の進め方もダーティーで、同業者からの評判はすこぶる悪いらしい。
その証言が本当だとするならば、Eさんの本性とは何なのだろうか。「人間は酔うと本性が出る」との主張に従えば、Eさんは素面だと冷酷で不遜な地上げ屋だが、酔うと本性が出て好々爺の人格者へと変貌するということになる。それならば、Eさんには酒を控えさせるどころかむしろ、みんなで寄ってたかって酒を飲ませて、無理にでも常に本性を出させるようにした方がいいのではないか。このような場合であっても、人間の本性が出るのはよくないと言えるのだろうか。
Eさんの例は極端にしても、酒を飲むことで言動が素面のときよりも好ましくなるケースはしばしば見られる。普段は口下手かつ人見知りで他者との交流を苦手とする人が、酒を飲んだ途端にリラックスして流暢に話せるようになり、自他ともに楽しい時間を過ごせることがある。あるいは、普段は堅物のエリートで他者を寄せ付けない雰囲気の人が、酒を飲むと一転して朗らかに軽口を叩くようになり、周囲を楽しませることがある。仮に人間は酔うと本性が出るとしても、その本性が悪いものであるとは限らない。意外に思われるかもしれないが、飲酒によって人格や言動が好転することも多々あるのだ。
「人間は酔うと本性が出るから飲酒はよくない」と主張する人々の脳内では、「人間は酔うと本性が出る」「人間の本性は醜い」ゆえに「人間は酔うと醜くなる」という三段論法が展開されているように窺われる。しかしながら、その三つの命題は全て誤りである。そもそも前提となる二つの命題が間違っており、そのためにそこから導き出された命題も間違っているのだ。確かに、この世には(私も含め)酔って醜態を晒す人間が少なからずいるので、「人間は酔うと醜くなる」という認識は正しいものであるかのように思えるかもしれない。もし酔っ払って電柱に抱き付いたり看板に土下座したりしている人間を見かけたならば、そうした認識は強化・再生産されることだろう。だが、世の中の全ての酒飲みがいつも醜態を晒しているわけではないのだ。犯罪行為やハラスメント行為は当然ながら許されないが、そうでない限りは、飲酒によって言動が変化したとしても、それを見て本性が出たなどとは思わずに、世知辛い現代社会で悪戦苦闘している大人の一時的な変身として受け入れてほしい。そして、そうした飲酒による「変身」を悪いものだとは思い込まずに、先入観を排して酔った人間と向き合ってほしい。その結果、案外「この人は酔ったときの方がいい」と思うようなことがあるかもしれない。もちろん、「やっぱりこの人は酔うと駄目だ」と思う可能性も十分あるけれども。
最後に、もし読者の方が今後、酔った私の痴態を目の当たりにして醜いと感じても、全ての酒飲みがそうであるかのように一般化するのはやめていただきたい。それはあくまで私個人の問題であって、決して酒飲み全般の問題ではないからである。私のことは嫌いになっても、酒飲みのことは嫌いにならないでください。
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著者プロフィール
1990年、兵庫県生まれ。短歌を作ったり酒を飲んだりして暮らしています。歌集に『もうちょっと生きる』(風詠社、2018年)、『鬼と踊る』(左右社、2021年)。好きな芋焼酎は「明るい農村」、好きなウィスキーは「ジェムソン」。
X(旧Twitter):@saburo124