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網代、それから中退について
※事情説明をすることについては、相手方から許可をもらっています。
まぁ、言いたいことはわかる。何が起こったんだ、と——。
気づいたらあのむすびのアカウントも消えていて、連絡とったら「実家に帰った」みたいだし、シェアハウスもなくなってるし、どういうことやねん、と。
既に事情を知っている方も、なんとなく風の噂で何かを知っている方も、何も知らないぜ!って方も、まずはご心配をおかけしました。
そして、気にしてくれてありがとう。私はまぁまぁ元気です。
まぁ簡潔に話すと
・あのむすびの活動は停止
・シェアハウスも解散
になりましたよ、と。
何を言っているのか、わからねーと思うが……。
というポルナレフを置いておいて、今回の騒動はこれにて説明終了とさせていただきます。
えー!と思ったそこのあなた!
もうええでしょう。
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この場で色々と説明したところで「いやいや!そんなつもりはなかった!」「それには事情がある!」などなど反論があるでしょうよ、わかってるんだからね。
そもそも、何が真実で何が虚偽かなんてのは当事者が一番わかっているはず。
とはいえ、自分を守るために嘘をつくこともあるだろう。
マジで勘弁して欲しい。
これ以上お互いがお互いを傷つける化け物になるのはあまりにも悲しすぎる。
というか、証拠のないお話は、もう何が正しくて何が間違っているかではなくて、誰が何を信じたいかという話になってしまう。
ともあれ、私が、めっちゃ考えてめっちゃ悩んで行動したのは変わりない。
私が超絶怖くて逃げた。
それだけ。
ほんと、それだけ。
全部が超怖くなった。
これ以上酷い事にならないように急ブレーキを踏んだ。それだけ。
だから、これ以上の敵対も、対立構造も、全く望んでいません。疲れちゃうだろうし、過去のことに構ってもらうのも、ねぇ。
私の傷は私で癒すし、助けて欲しいと思った時に助けてって言うので、大丈夫ですぜ。
現実は小説みたいにわかりやすい筋道がないから、複雑怪奇なわけであって。
私には私の言い分があるように、相手にも相手の言い分があるでしょう。そんな水掛け論、誰が聞きたいねん。
それ以上のことは気になったら聞いてください。話せる範囲で話します。
網代シェアハウスはなんだかんだあり、11月をもって終了したのでした。
応援してくれた人たち、本当にありがとうございました。
夢と希望でいっぱいだったあの家に戻ることはもうありません。
すごく楽しい半年間でもありました。
あの場所にいたからこそできた友達、仕事。
あの場所にいたらからこそ見えた景色、味わえた空気、知った文化。
とっても大切な場所になりました。これからもそれは変わりません。
私は関われる範囲で、これからも関わっていきたい。私のできる力で、あの場所を描きたい。
網代のこと、ぜぇんぜん書けてないのでね!!!!
関わり方を変えるだけ。
やり残したことがいっぱいある。
これを機会に、自分のやりたいこと、形にしたいことをゆっくり考えていきたいものです。
この3とか4ヶ月の間、本を読んだり、いろんなところ行ってみたり、と思ったら急に塞ぎ込んで何も出来なくなったり。
心がてんやわんやの大忙しである。
とはいえ、心が空っぽだったので、その穴埋めをするために東奔西走。
回復してきた実感もあるので、そろそろいい加減に頑張ろうかなとも。
というわけで、この何も書けなかった数ヶ月間の私の話でもしようかなと。
色々と切り口はあるけれど、まぁ、中退が一番大きいかなと思います。
Q.中退したの? A.そうだよー
ぽろぽろと書いていた通り、2年と半年くらい通っていた大学院を中退しました。
コンパッションや、愛とか考えてみたり、「書くとは何か」とかをいろんな文献から読んでみたけれど、修論を書く時点で「無理かも!!」と飛び出した。
移住生活が忙しすぎたのもあったのかもしれない。まぁ、きっとこれは言い訳なんだろうけれども。
「あと半期なんだから、もうちょっと頑張ってみたら?」って言われてたのにぃ。
「院なんてさ、行きたくても行けない人もいるならさ、頑張って通ってもいいと思うけどな」って言われてたのにぃ。
確かにぃと思いながら、「もうできないんですわ!」とヤケクソお嬢様になり、颯爽と辞めてしまいました。
休学するか迷っていたんですけど、気持ちの天秤の「辞めちゃえ~!」がデカくなり過ぎて「大学院……哲学……修論……」みたいなモヤモヤが天高く飛んでいってしまったと。
シンプルな結論としては「もう哲学できないな」と思ったからやめたんですけどね。説明終わり。
それに至るまでに色々と過程はあったのですが、だんだんと自分が「哲学できていない」状態が続いている自覚がありました。
哲学ができない
哲学の道を歩む者として、由々しき事態である。
物事に対して深く考えられていない。
理論づけをせずに行動している自分がいた。
善いと思うことを重ねて続けてきたけれど、それが「誰にとって」善いことなのかまでを考えていなかったように思う。
まぁ、いろんな要因はあると思うけれど、私は、私のことのについて考える時間がめっきりと減ったことが挙げられるんじゃないのかなぁ、と思う。
立ち止まって考えることよりも、動き回って見たり聞いたりすることの方が多かった。
昔の人の思考や考えよりも、今生きている人の知恵や知識、歴史や文化を聞くのが楽しかった。
学問の反対側に飛んでいったんだと思う。目先の楽しいこと、面白そうなこと、チャレンジしたいことに夢中だった。
知ることよりも見ること、感じることの方が、楽しかったのは確か。
哲学する、とは通説からするに、「知を愛する」営みである。
「哲学(philosophy)」は「知(sophia)+愛する(philo) 」と語を解体することができる。
語源はギリシア語。
ラテン語系列なので、文頭に動詞が来ます。
ちなみにラテン語で「愛する」は「amo」です。イタリア語の匂りが単語から漂いますね。
愛ってなんやねんってところはまた再考するとして、知る、ということを「おもしれぇ!」「楽しい!」「もっと知りたい!」と思わなければ哲学は続かないというわけである。
それができなくなったので、院にいる意味がないなと思った。
考えることを常にしていないと自分が自分じゃなくなっていく感覚がかつてあった。
けれど、動き回っていた頃の自分はその感覚を失っていた。動き回ることにアイデンティティを持っていたんだから、そりゃそうだよね。
考える、ということは簡単にできそうで(そして誰にでもできそうに見えて)案外難しい。
なぜ難しいか。
それは「考える」という営みをそれぞれ個人によってどのくらいの深度なのか、どのくらいの思考を「考える」とするのかが違うから、だと思います。
「悩む」と「考える」もまた違う。
選択肢を消去していく「悩む」に対して「考える」ことは選択肢を増やしていく営みのような気がしている。
真逆ですよね。
それでも人は「考える」と発言した時に同時に「悩み」、膨大な可能性から思考の回数を減らして答えを導き出していることもある。
「考える」の本質は、たくさんの可能性を見出すことではないだろうか。
その一つ一つの可能性を吟味し、言葉に起こし、じゃあ一体この中で自分の思う最善は何かを選択する。果たして、この営み、やっておりますでしょうか。はい、面倒臭いこと言い始めた自覚があるのでこの辺にしておきます。
何が言いたいかと言うと、私は「悩むことはあったけど、考えることはなくなった」ってことなんだと思う。
なんでそうなったのか。
簡単な事だ。
住む場所を変えた。近くにいる人を変えた。
すなわち、環境を変えたからこうなったと思っている。
新しい環境に飛び込むというのは、そこそこにパワーとエネルギーを使うものであった。
私は結構ラッキーな方だったし、かなり幸せに仕事もできていた。けれど、今までと違う環境に慣れることは、自分が想像している以上に力が必要な事でもあった。
そして私の根幹はまぁまぁ暗めなので、息切れした。
INFPワイ、とっても気にしいでもあるのだ。
家にいる時にリラックスできればよかったものの、同居人との仕事やその他色々なコミュニケーションがあってうまく回復できなかった。
ので、上手い対処をしないうちに「哲学」ができなくなってしまったのだ。
無限の探究をする余裕がない。私は目の前のことを優先するがばかりに今まで自分が大事に持っていた「哲学」を手放した。
それすなわち、私自身の弱さなり。
新しいことに夢中になって、自分の荷物が邪魔だと手放したのだ。その中に「書く」も入っていた。
なんと、私はめっきり何も書けなくなってもいた。
それでも幸せだった。書かなかった分、別の要素が自分の中に入ってきたとも言えたから。それが何かは正直分からないけど、大人になっていったのかもしれない。
新しい仕事を始めることは、半分恐怖であり、半分楽しさがあった。書くことも、自分のことを書かなくなった、小説を書かなくなったと言うだけで支障がないものだとも思っていた。
移住生活の全てが不幸人(ふこうんちゅ)と思うことなかれ。
少なくとも、外での仕事は幸せであったし、まちの人たちのことは大好きであった。
まぁ、そんなこんなで私は哲学をやめた。
「この世にはね、哲学なんか必要としない人だっているんだよ」
友達からそう言われた。
あぁ、そうか。私は哲学を必要としていなかったんだなと、すんなり退学届を提出した。退学届を書いたのは今年の7月下旬あたり。ま、網代で骨埋めますかと覚悟を決めたタイミングでもあった。
同期の友達に「お前の退学届、あまりにもポジティブすぎて褒められてるで」って言われたので、かなり前向きに退学したらしい。
全く後悔はない。てか退学届って回し読みされるものなんだろうか。
さて、「哲学いらないかも~!」と思って退学届を書いた二週間後くらいに、「やっぱそうでもなくね?」となるような出来事があった。はやい。あまりにも早すぎる。
そしてその一ヶ月半後に網代から緊急脱出することにもなった。まぁこれは違う事情でだけれど。なんなんこの人生?本当に。
ともあれ哲学は私の中に超生きてたし、超普通にやっていた。
それがわかっただけでも大収穫だろう。生き方すらも失っていたら今頃どうなっていたことやら。
「え、捨てられるものだと思ってた?」
捨てたと思ってた哲学が、メンヘラ起こしてる。ゴメン、そうやんな。
私が捨てたのは課題とされていた哲学書の精読であり、哲学そのものではなかった。
私が捨てたのは書く時間であって、書くことそのものではなかった。
思い出したのは、とある言葉について考えさせられる時間。今まで目まぐるしく駆け回っていた私は、それによって立ち止まったのであった。
ちょ、待っ、これ、これじゃん!私が好きなやつ!!
いにしえの女オタクが目を覚ます。
懐かしい感覚。自分の中にあった言葉で何かの輪郭を形作ることの面白さが噴出した。
言葉を考えるって超楽しい。一つずつ可能性が広がって、一つの単語にたくさんの意味が込められていく感覚、めっちゃ素敵。
この時間、大好きじゃん。
とっても幸せだった。
新しい挑戦をする時以上に、満ち足りた気持ちになった。
自分の好きなことを思い出したから。
やっぱ、そうやん。私、哲学できてますやん。
気がついたら、文章も書けていた。
そうですやん。こっちがやっぱり好きで好きで、たまりませんやん。
まぁまぁ短いし、拙いけれど、「書く」種子は私の中にずっとあった。
哲学、全然いるし、全然できた。
できた、というのは語弊があるかもしれないけれど考え方の種や、切り口、思考の仕方はずっとあり続けていた。
書く時間が全くなかっただけで、テーマさえあれば驚くくらい書けた。超楽しかった。超嬉しかった。
自分の進んでいる道には哲学あって、書く、があった。それはこれからも変わらない。
今まで踏み締めてきた土台に、哲学の足場は、確かにある。
そりゃ哲学者とか、哲学学者に比べたらまったく読んでる本も少ないし、論文だってちょろちょろしか書いたことないけどさー!
それでも、哲学してきたんだなって自分を認めることができた。
これからも哲学ができるんだな、っていう実感が湧いてきて、とっても嬉しかった。
哲学すること、書くことは重大なことでも偉大なことでもない。
私の中にあった大事なものがとっても素敵な形で言葉になったという、そういう感動であるのだ。
自分の中に感覚として残り続けていて、単に大好きな営みであるということを思い出したにすぎない。切っても切り離せないものであることも思い出した。
考えて、書く。書いて、考える。
これを繰り返し行い続けて、書き続けない限り、私は私じゃないんだろうか。
そういうものが自分の中にあって、よかった。バラバラにならなくてよかった。
おかえり、本来の私。
そうじゃなかった時の私は、私じゃないのではなくて、それらを忘れて他の何かに生まれ変わろうとしていた私なのかなと。
てか、アイデンティティを手放すというのは本当の意味で無理なのであって。
必死に今まで手放さなかったということには、何かしらの意味があるという事なんだろう。今回は「まだできるじゃん」って事を教えてくれたようでした。
ま、とはいえ12月現在。
退学は取り消せないし、今更同じ大学院に戻るつもりもない。
大学院でしか哲学ができない、というわけではなかろう。
自分がその気になればどこでも哲学できるものである。
知を愛する営みというものは、誰かに教わりながらやるものだけを正しいとするのではない。
自分の知りたいと思うことを、知りたいだけ調べたり、考えたり、読んだりすること。
そして実践的に行動におこすということ。
案外、今まで通りなのかもしれない。
案外、今までと同じことを営んでいくのかもしれない。
それでも嬉しいのだ。
自分のことを自分で認められて。自分の言葉に真摯に向き合えていて。
自分が何をしたいのか、どこに行きたいのか、どう生きたいのか、考える余地はいっぱいあるだろうし、いっぱい考えて選択できればいいと思っている。
考える筋肉も、かなり衰えているから鍛え直さないといけないけれど。
それでも、考えたい、知りたいことは多くある。
考えて、知って、それらを自分の血肉にしたい。
書くことが、やっぱり何よりも私の喜びであって、魂なんだと思う。そう思いたい。
小説も書きたいし、本も作りたい。いろんな話をつくりたい。
なぁに、まだまだ人生は始まったばかり。これからいつでもやり直せるさ。
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