中庸ってなんだ
中医学の基本の中に「中庸」という考え方がある。
過不足なく調和がとれていること
極端に偏らず中正であること
これが中庸の定義らしい。
中医学は、患者さんの身体の偏りを見極め、その逆の偏りを持つ薬を用いて病を治し中庸に戻していくそうだ。
(元は儒教の言葉かな?ちゃんと調べてませんごめんなさい。)
授業でこの考え方を教わったとき、私は「ほおほお、なるほどね」と納得した気でいた。
考え方としてはとてもシンプルだし、聞いた感じ何となく出来そうな気がしてくる。好きか嫌いかで言ったら、好きな考え方だなと思った。
でも最近ふと疑問が湧いた。
中庸ってどこ?なにをもって中庸なの?と。
なので今回は「中庸」について、ぐだぐだ考えます。
中庸を、もっと身近な言葉に置き換えると何になるだろうか。
「普通」とか?
じゃあ普通ってなんだ。
Google先生によると
ごくありふれていること。通常であること。だそうだ。
まあ、遠からず近からず、といったところか…
普通、って言葉は結構日常で使いがち。
例えば
「〇〇さん、こんなこと出来るんだ!すごいね!」
「えーそんなことないですよ全然普通ですよー!」
と謙遜したりとか。
非常識的な人に出会ったときに
「普通ああいうことしなくない!?」
と愚痴ってみたりとか。
こんな具合に、かなり多用する言葉だ。
でも、いざ「では普通とは何か述べよ」とか聞かれたら、私なら多分、ぐぬぬと押し黙るしかできなくなると思う。
そういえば、perfumeの「Dream Fighter」の一節にこんな歌詞がある。
『ねぇ、皆が言う普通ってさ なんだかんだで実際は多分 真ん中じゃなく理想に近い だけど普通じゃまだ物足りないの』
「普通」って、理想像や模範という意味にも、最低限の常識という意味にも使うことができる便利で曖昧な言葉だなぁ。
そう考えると、私たちが使う上で「普通」という言葉は、完全な「点」を指すのではなく、かなり意味にゆとりがありそうだ。
中医学は、物事を相対的に見なければならない分野だと思う。
検査数値のような絶対的な基準はない。
本人が異常を訴えるなら、病理的な何かが起こっていると考える。(というイメージがある。)
そして、この「異常を訴える本人の感覚」を、とても大事にしなければいけない感じがする。
例えば、ある人が「毎日毎日仕事で疲れ果ててしんどい」と言ったとする。
その仕事内容や労働時間が、誰がどう見てもハードワークだという場合もあるだろう。
でも、そうじゃない場合もある。
「え、そんなことで普通そんなに疲れる?」と、見る人によっては思うかもしれないし、本人も「なんで私はこんなことで疲れてしまうんだ…」と悩みを抱えていたりもする。(まさに私はそうだった)
診断学を教えてくれる先生は「主訴を捕まえることがとても重要だ」と言っていた。
患者さんが何に困っているか、なぜ困っているか、どう改善したいのか。
きっと傾向こそあれど、千差万別だろう。
そこにはその人だけにしっくりくるバランスがあって、私の価値観を押し付けてはいけないんだと思う。
その人にとって最も心地良く、身体も気持ちも健やかに居られること、が「中庸」なのかなぁ、うん。
今のところはそんな結論です。
あーでもなぁ、いざとなったらそこの匙加減むずかしいんだろうなぁ…
傍から見てどんなにアンバランスに見えても、本人が困っていなければオッケー、なんだろうか。
うーん……
(と、新たな悩みが出てきたところで、本日はお開き)