「ディープな維新史」シリーズⅧ 維新小史❿ 歴史ノンフィクション作家 堀雅昭
別に祀られた福原家5柱
山口県文書館に所蔵される『明治六年 招魂場記録』から、長州・宇部の維新招魂社の初期の風景を探ってみたい。繰り返しになるが、革命神社「維新招魂社」のあった場所は、現在の宇部護国神社の境内地の旧維新招魂社跡である。
まずは「祭神様」として「福原越後 大江元僴(おおえもとたけ)」と記されている。明治6年当時は、本殿には福原越後の1柱だけが祀られていたようだ。
だが、興味深かったのは、つづく「相殿 左之通」の記述である。
相殿には、以下の5柱が祀られていた。
❶「福原下総守(ふくばらしもうさのかみ) 大江広俊(おおえひろとし)」
❷「福原出羽守(ふくばらでわのかみ) 大江貞俊(おおえさだとし)」
❸「福原越後守(ふくばらえちごのかみ) 大江広俊(おおえひろとし)」
❹「長井左衛門蔚(ながいさえもんい) 大江時広(おおえときひろ)
❺「長井出羽掃部介(ながいでわそうべのすけ) 大江貞広(おおえさだひろ)
ここで冒頭❶の「福原下総守 大江広俊」は福原家の第10代であった。
つぎの❷「福原出羽守 大江貞俊」は第11代。
❸「福原越後守 大江広俊」は第13代。
そして❹「長井左衛門蔚 大江時広」は、なんと福原家の初代である。
最後の❺「長井出羽掃部介 大江貞広」は第5代である。
果たして主祭神の福原越後の神霊とは別に、相殿に祀られた5柱の神霊は何を意味していたのか。
この謎を解くため、前掲の5柱を年代順に並べ替え、代数の番号に打ち換えて『宇部市史(通史編)』(昭和41年刊)を参考に、彼らの功績を抽出しておこう。
⑴ 「長井左衛門尉 大江時広」は鎌倉幕府の中軸を担った人物で、建保6(1218)年5月17日に蔵人に任じられ、仁治2(1241)年に没した。
⑸「長井出羽掃部介 大江貞広」は貞和5(1349)年8月25日に総領家督を相続し、応安4(1371)年10月1日に毛利元春の5男広世と親子の契約を結んだ後、今川了俊に属して九州に渡り、翌応安5(1372)年2月10日に麻生山の戦いで負傷。応安7(1374)年正月には城井常陸入道と戦い、筑後川を渡り転戦するが、応安8年(永和元〔1375〕年)8月29日に筑後国山崎の地で戦死した。
⑽「福原下総守 大江広俊」は、永正7(1510)年9月16日に家督を継ぎ、弘治3(1557)年1月10日に没した。
⑾「福原出羽守 大江貞俊」は、毛利元就を助け、輝元の代に及んでも補佐を務めた。文禄2(1593)年8月15日に没した。
⒀「福原越後守 大江広俊」は、天正19(1591)年4月21日に家督を継ぎ、慶長元(1596)年9月、豊富秀吉の朝鮮出兵(再征)により総勢3389名の大部隊を編成して翌慶長2年に朝鮮に渡り、軍功を上げた。慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いでは、吉川広家と共に徳川方と折衝して毛利家断絶の危機から救い、防長2州の安堵に成功した。
それでは、以上の⑴、⑸、⑽、⑾、⒀各代の福原家が、なにゆえ革命神社「維新招魂社」に神として祀られたのかを、次に考えてみることにしよう。