「ディープな維新史」シリーズⅠ 厚南平野の怪❹
厚南平野の怪❹
歴史ノンフィクション作家 堀雅昭
毛利謙八(もうりけんぱち)の墓
尊皇攘夷を目的とした明治維新であったはずなのに、蓋を開ければ尊皇欧化にすり替わっていた。その意味で、明治維新は近代化のための戦いの側面がある。
世界史的に眺めれば、当時はイギリスを軸とするパクスブリタニカを背景にしたグーローバリズムの時代だった。
その混沌に日本では禁門の変、四境戦争、戊辰戦争という戦いがつづき、多くの犠牲者が出た。
こうした維新戦争遺跡のひとつが、宇部市厚南に位置する厚南小学校の校庭に鎮座する毛利謙八(もうりけんぱち)の墓である。正門から入って奥に進んだ場所に鎮座する神道墓だ。
墓の来歴は、明治17(1884)年生まれの郷土史家・湯田文祐が編集した「毛利謙八公」(『開校九十周年記念編集 厚南小学校史』)に明記されている。
かつて毛利山と呼ばれた厚南小学校のある丘に無縁仏が散乱しており、毛利謙八の墓もその一つだったという。
毛利謙八の墓は、禁門の変で戦死した宇部護国神社(旧維新招魂社)の霊標と同型式である。
後には日清、日露など官軍の戦死者を祀る形式に踏襲されていく墓の形式でもある。
毛利謙八は天保12(1841)年に右田毛利家に生まれ、大森(厚南小学校の周辺)の領主になったと伝えられる謎の人物だ。
墓の横に、「毛利謙八公の墓」と題する説明版が立ち、「厚狭郡際波村大字森および上開作の一部を領し 知行二百石を禄した」と記されている。
200石の知行が事実なら、大組の高杉晋作の父・高杉小忠太の石高と同じくらいだ。だが、高杉家が藩の記録に度々顔を出すのに、毛利謙八の名は、ほとんど出てこない。まったく霧に包まれた人物だ。
おそらく、「上開作の一部を領し」と見えるように、撫育開作の管理に関わっていたのである。秘密裡の資金源との関わりを持つ人間だった。
しかも毛利謙八は、幕末に暗殺されていたのである。
その暗殺時期も、大きく2説あった。
第1説は、慶応元(1865)年2月の暗殺説だ。
これは、『厚狭毛利家文書御用所日記』に2月2日の出来事として、「棚井村浄明寺屯集の荻野隊ノ内 毛利鎌八と申者、同隊の内より討取り右の首 船木布目橋の少し東往来の脇ニ高札相添立置候段…」という文章で確認できる。
「浄明寺」は「浄念寺」の誤りで、「鎌八」は「謙八」の誤りだろう。
厚東棚井の浄念寺には、確かに毛利謙八暗殺秘話が残されている。
別に『厚狭毛利家文書 代官所日記』にも、慶応元年(元治2年)2月2日のこととして、「荻野隊の内 毛利隼之助弟謙蔵と申者、過ル廿九日 伊佐より棚井え罷出候 三拾人程の荻野隊道中ニてハ惣督共成候仁、昨夜於棚井右隊中より令斬首」と見える。
これも「謙蔵」が「謙八」の誤記と思われる。
なお、『防長回天史 九』(627頁)に「正導隊」の説明に、「荻野隊の一分派にして毛利謙八 桂雅菊之れが首領たり」と出てくる。どうやらこの時期、毛利謙八は荻野隊関係のリーダーであったようだ。
つづいて第2説が、明治2年末から同3年初頭の脱隊兵騒動のときに暗殺された説だ。
こちらは地元郷土史家の高野義祐が『長州諸隊(下巻)』で取り上げたもので、当時を知る勝村翁のつぎの談話(『小野田郷土研究第四号』)が元になっている。
「毛利謙八さんは大森の旦那様でした。脱隊に反対で、脱隊組にとろうとする人を妨げて脱退 組にいれなかったので、隊士がとうとう斬り殺しました」
明治維新研究家の一坂太郎は自著『長州奇兵隊』で第2説を有力視していた。
奇兵隊をはじめとする身分を越えた実力主義ゲリラ部隊は新時代に切り捨てられて暴徒化し、毛利謙八も巻き込まれて殺されたというシナリオだ。ただ、これはどうだろう。
湯田文祐の「毛利謙八公」は、毛利謙八が明治2年2月1日に25歳で「勤王の花と散った」と記している。すでに見たように、この書き方では脱隊兵騒動とも少しズレてくる。湯田文祐の説明も、100パーセント信じるには無理がある。
以上により、公的文書である『厚狭毛利家文書御用所日記』や『厚狭毛利家文書 代官所日記』に記録される「第1説」の慶応元年2月の死去時期が、もっとも妥当に見えるのだ。
慶応元(1865)年は年明け早々の大田・絵堂の戦いで、高杉晋作の奇兵隊をはじめ諸隊が勢いづいた時期であった。2月には村田蔵六(大村益次郎)が壬戌丸(じんじゅつまる)に乗り込んで上海で武器仕入れの密貿易を行い、高杉晋作もイギリス密航を3月に企てている。
時代の大きなうねりの中で、長州藩の正規軍(俗論党)を破った諸隊(討幕派)が勢いづいた時期でもあった。
この時期、高杉はイギリス密航を計画し、長崎のグラバーに会いに行く。だが、グラバーは高杉が日本を離れることを危惧し、結局、高杉はイギリス密航を止めて下関開港に向けた準備をすることになるのである。
だが、下関開港に向けて、長府藩や清末藩に属する下関を萩本藩に組み込む工作を行う高杉は、そのことで長府藩の報国隊士たちの怒りを買って殺されかけてもいた。
慶応元年の初頭は、血で血を争うカオスに満ちていたのだ。
こうした混乱期に、毛利謙八も厚東で暗殺されたと考えるのは自然である。
そうであるなら、やはり第1説(慶応元年2月の暗殺説)ではあるまいか。
つぎのチャプターでは、毛利謙八の暗殺に連続した事件を見てみたい。