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「ディープな維新史」シリーズⅧ 維新小史⓮ 歴史ノンフィクション作家 堀雅昭

2度も死んだ竹下譲平


『明治六年 招魂場記録』(山口県文書館蔵)に記録されていた維新招魂社の28基の招魂墓のうち、慶応2(1866)年11月19日に建てられた22基が「禁門の変」の戦死者だった。
 
しかし前々回「維新小史⓬」で述べたように、実際には竹下譲平は戦死していなかった。
そのことを確かめるために上宇部中尾の福原邸跡の横の路地の一番奥に竹下正義さん(大正9年生まれ・故人)のお宅にお伺いしたことがあった(取材は平成21〔2009〕年6月)。
 
竹下家は江戸時代に建てられており、今残っている福原家臣屋敷としても貴重なものだ。
 

竹下譲平の生きた時代の面影を残す竹下家(平成21年6月)


居間で祖先の話をする竹下正義さん(平成21年6月)


竹下譲平は、万延元(1860)年に長州藩が洋式兵制を採用したとき、同じく福原家臣の定近市太、藤田義輔、藤本保、大野修内たちと共に明倫館で30日間洋式兵制を学び、技術を宇部に持ち帰って広めた一人であった。
 
そもそも竹下家が宇部に関係したのは、徳川家が豊臣方を壊滅させた元和元(1615)年5月の大阪夏の陣で、宇部に逃れてきて住み着いたことにある。
 
むろん毛利家を頼って長州入りしたのだが、家伝によると寛永2(1625)年に第14代の福原元俊が宇部を所領(8000石)したころから福原家臣になり、6代目が譲平になるという流れだった。そして幕末に至り、討幕運動の渦に飲み込まれて、「禁門の変」に従軍したわけである。
 
ところが『宇部先輩列伝』の「竹下譲平」の箇所には以下の説明がある。
「元治元年六月、福原越後公に従うて伏見に上り、戦敗れて宇部の人士は皆淀川に沿うて下った時に、氏はどうしたはずみか、伊勢の国(?)に逃れて、帰るにも帰られず、寺子屋の師匠となって久しく其の地に留まり、明治維新後になって宇部に帰ってきた」
 
なんとも生きながらえていたのである。
だが、前掲の『明治六年 招魂場記録』がまとめられた時点では戦死者になっていて、維新招魂社の「墓所」に墓(招魂碑)まで造られていた。
 
竹下家で見せて戴いた過去帳にも、葬儀の日が「元治元子八月二日」と書いてあった。ところが、その後、生きて自宅に戻ってきたわけだ。
 

竹下家の過去帳(竹下譲平 元治元年8月2日没)


実際、竹下家の同じ過去帳に、本当の没年「明治二十三年四月十九日」も記されていた。竹下譲平は2度死んだことになろう。
 

竹下家の過去帳(竹下譲平 明治22年4月19日没)


竹下家に伝わる話では、譲平は奈良まで逃れ、そこで医学や薬学の勉強をして明治8年ころに帰郷して、二俣瀬(宇部市二俣瀬)で医者をやったのだという。このため竹下家の物置には、薬を調合する道具が後々まで残っていたそうだ。
 
そういうわけで、現在、宇部護国神社の旧社地(維新招魂社跡)には、竹下譲平の招魂墓はない。
 
一方で、竹下家の庭には招魂墓と形も大きさもよく似た石の門柱跡が残っている。
竹下家は古くからの福原家臣だったことで、福原家と関係が深く、庭に転がっているいくつかの石柱も、旧福原邸(福原公園)から持って来たものらしい。
 
もしやと思って、門柱となっている石柱を確かめたが、名前は刻まれてなかった。
とはいえ、かつて招魂社に建っていた竹下譲平の招魂墓を持ち帰ったものかもしれないと思えるほど、、その姿は招魂墓に似ているのであった。

竹下家の招魂碑に似た門柱(平成26年9月)




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