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「ディープな維新史」シリーズⅧ 維新小史⓬ 歴史ノンフィクション作家 堀雅昭

28基の招魂墓


山口県文書館蔵の『明治六年 招魂場記録』には、宇部の維新招魂社に祀られていた招魂碑=墓について、「墓数二十八 但 人名 左之通」と記されていた。

「明治6年 招魂場記録」宇部維新招魂社(山口県文書館蔵)


ここでは神として祀られた28柱を①~㉘まで番号を付けて、死因と併せて並べてみよう。〔 〕は筆者の補足。
 
➀ 土祢左衛門次郎 大江成恒…永和元(1375年)8月29日 筑後国山崎にて討死(うちじに)〔※1〕
➁ 荘〔庄〕十郎左衛門 藤原俊正…天文13(1544)年7月18日 備后〔後〕ノ境々ノ川ニテ忠死〔※2〕
➂ 神田惣左衛門 藤原資則…慶長2(1597)年酉12月22日 従朝鮮国征ノ役戦死於蔚山(うるさん)〔秀吉の朝鮮出兵での戦死〕〔※3〕
➃ 三井弦次郎 藤原清俊…明治元辰6月27日 戦死 越後国ニテ〔戊辰戦争で戦死〕
⑤ 新見弾蔵 藤原常久…元治元子7月18日 戦死 於城州藤森(ふじのもり)
⑥ 波多野敬蔵 藤原道郷…同年同月19日 戦死 於城州竹田街道
⑦ 徳重音之進 大江直義…同年同月4日 城州伏見ノ役被創 不知所終
⑧ 竹下譲平 藤原譲…同断
⑨ 藤田哲蔵 藤原通行…同断
⑩ 西村素兵衛 源唯謹…同断
⑪ 伊藤虎松藤原直久…元治三(〔慶応2〕1866年)7月3日 戦死 於豊前大裡 奇兵隊
⑫ 村上小次郎 源周徳…同断 同隊〔奇兵隊〕
⑬ 藤井佐治右衛門 正則…元治元子七月十九日 伏水ノ役 不知所終
⑭ 西村伝治唯清…同断
⑮ 徳冨新太郎 徳忠…同断
⑯ 三隅吉平 吉直…同断
⑰ 藤井勇治 忠直…同断
⑱ 兼安栄蔵 忠兼…同断
⑲ 河内弥四郎 勝成…同断
⑳ 林政右衛…同断
㉑ 林政之進…同断
㉒ 藤本久左衛門…同断
㉓ 三隅芳兵衛…同断
㉔ 秋本作兵衛…同断
㉕ 中村庄七…同断
㉖ 上田梅治郎…同断
㉗ 田中庄蔵…同断
㉘ 正木瀧蔵…同断
 
これら28柱の招魂墓については、「築造慶応二年寅十一月十九日也」と記されている。
すなわち社殿落成時に造られたものであったようだ。
 
付言すれば、旧社地に並ぶ招魂碑の前に鎮座する石燈籠(狛犬の隣り)には、「慶応丁卯八月」と刻まれている。

「慶応丁卯八月」と刻まれている維新招魂社跡の石燈籠

これは慶応3(1867)年8月なので、順番としては社殿と28基の招魂墓が完成し、つづいて小串側入口の石鳥居が造営され(慶応3年3月)、さらに石燈籠が奉納されたことがわかる。
 
ところで28基の招魂墓のうち、福原越後に従い「禁門の変」で戦死した犠牲者が➄➅➆➇➈⑩⑬⑭⑮⑯⑰⑱⑲⑳㉑㉒㉓㉔㉕㉖㉗㉘の22柱であったことがわかろう。
 
もっとも➇の竹下譲平には、別に面白いエピソードがある。
実は戦死してなかったのだ(この話は別稿で取り上げる)。
このため「禁門の変」での犠牲者の実際は、21柱であったわけである。
 
実はこの21柱の維新革命戦死者たちの合同位牌が、すぐ近くの宗隣寺に残されている。「伏見役殉難諸士各霊」と墨書された大型の木製位牌だ。

宗隣寺の「伏見役殉難諸士各霊」位牌


ついでながら福原家菩提寺の宗隣寺には福原家の家紋が入った膳なども保管されている。
 

宗隣寺に残る福原家の家紋入りの膳


話を維新招魂社の招魂墓に戻せば、明治維新関係では、他に⑪⑫が小倉戦争(四境戦争)での戦死者である。
 
また、➃が戊辰戦争における戦死者だった。
 
ところで問題は、以上のどこにもカウントされない➀➁③の3柱であった。
 
実をいえば、彼らは明治維新とは無関係で、「関ケ原の戦い」以前の戦死者たちであったのだ。
宇部の維新招魂社には、徳川家と戦う以前に戦死した福原家の人たちも祀られていたわけだ。
したがって福原家とその家臣団の戦士者を祀るための神社であり、討幕維新も福原家一門の名誉回復のための戦いだったことが改めて浮かび上がるのだ。
 
〔※1〕『稿本宇部五十年志』には、「元和元年九月 筑後国山﨑に於て。長井(福原)貞広公に殉死したるもの」とある。
〔※2〕『稿本宇部五十年志』には、「天文十三年七月、石見国郷ノ川の戦に於て、福原貞俊に代りて戦死したるもの」とある。
〔※3〕『稿本宇部五十年志』には、「慶長二年十二月、朝鮮蔚山の役に毛利麾下の福原軍中に在りて戦死したるもの」とある。
 




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