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「ディープな維新史」シリーズⅠ 厚南平野の怪❶

 厚南平野の怪❶

 歴史ノンフィクション作家 堀雅昭

立正佼成会宇部教会の前の道路を隔てた場所に立つ「御撫育用水路」の碑(平成22年6月)

幕資金を生んだ「御撫育用水(ごぶいくようすい)」


山口県宇部市には「厚南平野(こうなんへいや)」という江戸時代後期に出現した謎めいた地域がある。市域を縦断する厚東川の河口一帯の水田地帯だ。隣保館がある場所として、地元では知られる。そして土地の秘史を刻んだ「御撫育用水(ごぶいくようすい)」が、今も残る。
 
「御撫育用水」は米の増産のための人工的な農業用水路だった。
厚東小学校下の五田ヶ瀬(ごたがせ)から厚東川の水を取り、広瀬の「辰ノ口隧道(たつのくちずいどう)」を通って上開作、中野開作、妻崎開作、妻崎新開作を貫通している。

「辰の口隧道」の説明板〔広瀬〕(平成25年5月)
 「辰の口隧道」〔広瀬〕(平成25年5月)

これらの開作ができて、人が住みはじめたといっても過言ではない。
 
「撫育(ぶいく)」とは新たな産業を生み出す長州藩独自のベンチャー思想を示していた。
それは、7代藩主の毛利重就(もうりしげたか)が宝暦13(1763)年に設置した撫育方(ぶいくがた)に由来する。
 
撫育の目的は藩の財政再建にあった。
そのことが、身分制度を取っ払う実力重視の人材登用を行う近代的平等主義の基盤を作ったことはもっと知られてもよい。
高杉晋作が幕末に、身分を越えた奇兵隊を創設した背景にも、撫育の精神があった。
維新の精神の源流と言ってもよい。
撫育のシステムは、近代日本の幕開けに、そこまで大きな影響力を及ぼしたのである。
 
長州藩は財政再建のために、「防長の三白政策」として米、塩、紙の生産を奨励し、さらには蠟(ろう)を加えた「四白政策」などを行った。
これらは、明治維新後の殖産興業のひな型といってもよかろう。
 
忘れてはならないのが、海岸の埋立てによる新開作や、そこから得られる米などの穀物の売買、あるいは塩田開発や塩売買の利権を掌握した長州藩が、そこから得られた利益を幕府に報告せず、藩主(毛利家)の私的財産として蓄積したことである。幕府側からいわせれば、「長州藩の裏金システム」こそが、撫育であった。
 
厚南平野を含む「明治維新」の震源地となった現在の宇部市域は、船木宰判と呼ばれる藩の役所が管轄していた。
この地では、この地方でしか採れない石炭の経営や売買までも、幕末期には撫育方の経営になっていた。石炭採掘は一般的には賤業だが、長州藩では士族が関わっていたことになろう。
 
実は、撫育のベンチャー精神は、最初から討幕意識を内包していた。関ケ原の合戦で徳川家に敗れた敗戦体制から必然的に生まれたものだった。
 
戦いに敗れた毛利家は、徳川家により120万石から30万石にまで石高を落とされ、防長2州(長州と周防)に封じ込められたのである。そのマイナス分を「撫育」で取り戻そうとしたのだ。
 
実際、幕末には100万石(両)を越える財力を回復していたといわれる。こうして生まれた膨大な秘密資金が、幕末に討幕用の武器調達資金に化けた。すなわちそれが、明治維新だった。
 
そんな謎に包まれた「撫育」という言葉が、今では山口県下においても厚南平野の「御撫育用水」にしか残っていないのも、確かに妙な話ではある。
 
以上を明かしたうえで、「御撫育用水」により輪郭をあらわした厚南平野の開作地を北から順に並べておこう。
 
《上開作》
まずはJR宇部駅前一帯の「上開作」で、これは安永年間(1770年代)に秋里次右衛門が開いた開作と、天明2(1782)年に毛利四郎左衛門が開いた開作を併せたもので、後に撫育方の経営になっている。
 
《中野作》
つぎが「中野開作」で、「よこやま皮ふ科クリニック」の辺りから「はま寿司宇部厚南店」までの県道29号線一帯で、吉敷毛利氏が開発して完成後の天明7(1787)年に撫育方に売却されている。現在、妻崎神社裏の石垣に「中野開作堤防跡」の石碑が建っている場所が、中野開作と妻崎開作の境界である。
 
《妻崎開作》
3番目の「妻崎開作」が妻崎神社から西は国道190号線の流川交差点辺りまでの一帯で、撫育方が文化14(1817)年に潮留が成功している。この妻崎神社の前にも「御撫育用水」が流れている。

妻崎神社の前を流れる御撫育用水(令和元年8月)

ついでに言えば、妻崎開作には石炭が採れたことを示す「黒石」地名も残る。
藩政期に記された『防長風土注進案』の「東須恵村」には「塩屋台」の地名がある。
塩田の海水を煮詰めて塩を作る際に、燃料となる石炭灰を捨てて台地になった場所だ。
それは現在の塩屋台自治会館の裏手の丘で、所在地は「黒石北4丁目」である。

塩屋台跡「塩屋台自治会館」の背後の森(黒石北4丁目・令和4年6月)
 塩屋台「製塩場の跡」の石碑(黒石北4丁目・令和4年6月)

 
《妻崎新開作》
最後の「妻崎新開作」は、大まかな目安としてはJR小野田線から竹の子島までの一帯で、ここも撫育方の工事として安政6(1859)年に潮留が終わっている。
『厚南小学校百年史』が、「妻崎新開作は米麦の増産を兼ねて、この一帯からでる石炭の採掘を目的とした」と語るように、石炭開発とセットで開作が進んだ場所だった。
現在は原校区となっている梅田川が折れ曲がる場所に原郷土史研究会が建てた「石炭会所」の跡を示す木製碑が立つが、ここが妻崎新開作の旧庄屋で石炭局の地下役人「旧掛部屋敷」跡でもあった。





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