「ディープな維新史」シリーズⅣ 討幕の招魂社史❺ 歴史ノンフィクション作家 堀雅昭
招魂社ブームの到来
萩城内の仰徳神社の臨時大祭と、禁門の変で処刑された益田親施、福原越後、国司親相の三家老が長州藩で神として祀られた順番を時系列で再確認しておこう。年号はいずれも慶応元(1865)年である。
⑴ 2月8日…益田親施(笠松神社創祀)
⑵ 2月22日~24日…仰徳神社の臨時大祭
⑶ 5月16日…福原越後(琴崎八幡宮合祀=宇部護国神社創祀)
⑷ 6月15日…国司信濃(美登理神社創祀)
以上の一連の人を神として祀る行為が、長州藩招魂祭の前史だった。
むろん、こうした動きを敏感に察知した徳川幕府が警戒感を強めたのは当然だった。
実際、⑵と⑶の間に挟まる4月13日に徳川幕府側は再征決定を下していた(『もりのしげり』)。
石川卓美は『防長護国神社誌 招魂社起源考』(山口県文書館蔵)で、長州藩の招魂社発生のきっかけが、ここにあったと以下のごとく語っている。
「慶応元年閏五月、幕府はかねての企図に基き、長藩の再征を行はんとして、将軍徳川家茂は親ら諸侯を部署して京都に上がり、朝廷に奏請して、將に天下の大軍を防長の四境に殺到せしめんとした〔略〕。藩主敬親は士気を彌々作興すると共に、従来国事に斃れたる者に対しては厚く其の英魂を弔祭せんが為、令を下して二州諸郡に招魂場の開設を命じた」
その結果、長州藩では7月10日(『もりのしげり』では7月4日)に招魂場建設令が出たのである。
面白いことに、イギリスから帰国した井上馨と伊藤博文が長崎に潜入して西洋軍艦(汽船)やライフル銃の大量仕入れのためにグラバーと取引したのがこのタイミングだった。討幕用の武器調達である。
招魂社の建設は、徳川幕府との戦いを前提とした長州藩のミニ靖国であった。
そこで⑷の国司信濃の招魂祭から、藩が招魂場建設令を出す7月10日までをもう少し詳しく見ておこう。実は、この間に山口県山口市の秋穂二島の朝日山招魂社が創祀されていた。
朝日山招魂社とは、秋穂二島の高台に鎮座する現在の朝日山護国神社のことである。
下界を見渡せる境内までたどり着くと、なるほど寺島忠三郎や入江九一、久坂玄瑞、吉田稔麿といった維新のヒーローたちの名が刻まれた招魂碑が並んでいる。
朝日山招魂社については、『小郡町史史料集 林勇蔵日記』の慶応元年4月4日の箇所に「八幡隊より招魂場開人夫五十人差出候様、左右廻り柵迄相頼との事」と記されている。
八幡隊が朝日山招魂場の工事をするので人夫50人を差し出して欲しいと要求したことで工事がはじまり、6月25日に創祀の祭事(招魂祭)が行われていた。
「招魂場の棟上式は同年六月二十五日のことで、萩の椿八幡宮々司青山上総を招き、秋穂八幡宮からは入江陸奥、佐伯采女(うねめ)外祠官全員が参加し、昼は煙火(花火)数本を夜間も大花火数十打揚ぐる等秋穂が始まって以来初めての大にぎわいであった」(『秋穂二島史』)
琴崎八幡宮に福原越後の神霊を合祀した青山上総介(青山清)が、それから1か月が過ぎた慶応元年6月25日に、朝日山招魂場の棟上式で招魂祭を斎行していたのである。
現地には招魂場入口に、大人の背丈を超える招魂場由来碑が鎮座している。
そこには八幡隊の総督であった堀真五郎が元治3(1866)年3月、すなわち慶応2年3月に建碑したと記されていた。すでに見たように、「慶応」は幕府側の徳川慶喜(よしのぶ)に応じる意と解されるため、長州藩では使わなかった。
また、招魂場由来碑の裏面には、創設に関わった八幡隊幹部の名が上段に14名、下段に13名刻まれ、「青山上総之助 清主」の名も確認できる。
招魂場由来碑の近くに鎮座する石燈籠には「元治二年乙丑五月」の文字が刻まれているが、これは招魂場の工事に際して奉納されたものであろう。