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「ディープな維新史」シリーズⅣ 討幕の招魂社史❾ 歴史ノンフィクション作家 堀雅昭

闇に沈む京都蹴上の吉田松陰慰霊祭


小川寛大さんが主宰する雑誌『宗教問題』の依頼で、東京・九段のTKP九段下神保町ビジネスセンターで「初代宮司の末裔が憂う靖国神社の現在」と題した講演をしたのが平成29(2017)年4月15日だった。

「初代宮司の末裔が憂う靖国神社の現在」の講演風景(平成29年4月15日・画像加工)


会場には『日本の島事典』(三交社)や『古代技出芸神の足跡と古社』(新人物往来社)などの著者である菅田正昭(すがたまさあき)さん(昭和20年生まれ)が来られていて、「吉田松陰の慰霊祭が京都の粟田山で行われたのが面白かった」と講演後に感想を述べられた。
 
良く知られるように、吉田松陰は安政6(1859)年10月27日に江戸伝馬町の牢獄で処刑されていた。安政の大獄だ。
 
ところが3年を迎える文久2(1862)年10月17日に京都の蹴上(けあげ)、粟田山(あわたやま)で松陰を神として祀る招魂祭が斎行されていたのである。

京都蹴上。右手は日向大神宮の参道入口(平成27年11月)


主宰者は松陰門下の久坂玄瑞。
 
祭事を行ったのも長州藩の青山上総介(青山清)だった。
 
ちなみに青山の補佐役も、松陰門下の寺島忠三郎である。
 
蹴上での招魂祭には①佐世彦七 ➁福原音之進 ③福原三五郎 ④岡部繁之進 ⑤河上弥市 ⑥杉山松介 ⑦吉田栄太郎(稔麿) ⑧澄川敬助 ⑨楢崎八十槌 ⑩佐々木次郎四郎 ⑪瀧弥太郎 ⑫三戸詮蔵 ⑬結城市郎(筑前人) ⑭小国甲(剛)蔵 ⑮松嶋剛蔵 ⑯福原亀太郎たち16名が参列していた。
 
実際はもう一人、楫取素彦(かとりもとひこ)も参列予定だったので総勢20名が参集することになっていたが、楫取は間に合わず、香典だけ送って結局19名で斎行されていたのである。
 
どうしてそれがわかるかといえば、当時の記録が山口県文書館の「吉田松陰慰霊祭関係文書綴」と題する文書として残されているからだ。

「吉田松陰慰霊祭関係文書綴」文久2年10月17日(山口県文書館蔵)

 そこには祭壇に供える白米や御神酒、祭壇を囲む葉付きの竹や注連縄(しめなわ)など、「いつれも上総方宛て買揃 粟田山え差越申候」と記されている。

 プロ神職の青山上総介が祭事の全ての準備し、狩衣、烏帽子姿で荘厳な慰霊祭を斎行したのだ。

少々説明が長くなったが、講演でその話を紹介したのだ。

 菅田さんは「粟田山って、粟田口でしょう。あそこは刑場で、いわゆる被差別者のいる場所だったのではないでしょうか」と研究者らしい突込みをされてきた。

 「そのとおりです。確かに刑場のあった場所の付近で吉田松陰の慰霊祭をしていたようなのです」

 「そこは今、どんな状態なのでしょうか」

「ええ、私も付近を歩いてみましたが、蹴上浄水場とかあります。道路が通っていますが、他は山ばかりの殺風景な田舎でした」 

「そこで吉田松陰の慰霊祭をやったのは、どういう理由からなのでしょうか」 

「そうですね。松陰は幕府によって殺されているわけです。それを神として祀るというのは、やっぱり非合法活動なんですよ。こんなことが徳川幕府にバレたら、松陰のシンパとして参列者も連座して皆殺されるでしょう。だから、そういう特別の場所の方が、身を隠して祭事を行うには都合が良かったのだろうと思いました」

 実は参列した「寒緑」こと杉山松介が、「千束」こと山県有朋に宛てた手紙に招魂祭の様子を書いたものが別に残っている。 

「今朝 粟田山御買土地中 鵞大明神社に而 松陰先生神祭の式 催され申候。同志中 青山上総神官に而、誠に古蕭の式 感銘仕候。幕も葬典の詔遵奉の様子内々朝廷に伺書差出候。素より極秘に而御座候…〔以下略〕」(『山県有朋関係文書―2』)

 ここには松陰の招魂祭を行った場所が「粟田山御買土地中 鵞(が)大明神社」と具体的に示されている。

ただ、それがどこなのかはわからない。

 『もりのしげり』(大正5年刊)の「歴代領地城宅表」で確認すると、長州藩は「京都日ノ岡 蹴上ヶ」に「粟田山屋敷」を持っていたと見える。

しかしながら禁門の変で、徳川幕府に「粟田山屋敷」が没収されたらしい。

松陰の招魂祭を斎行したのは、毛利家ゆかりのかつての粟田山屋敷界隈だった可能性が強い。

 私は菅田さんに言った。

「刑場そのものでの招魂祭だったかどうかわかりません。ですが、ともかくこの時の招魂祭を機に門下生たちが過激になっていったのは間違いないのです。高杉晋作の血盟書に次々と署名が集まり、12月12日には東京の品川御殿山に建設中のイギリス公使館を焼討ちするといった調子です。蹴上における松陰の慰霊祭は、大きな意味があったと思います」 

そうは答えてはみたものの、あれほど吉田松陰を崇めてきた山口県でも、京都粟田山で斎行された最初の松陰の招魂祭については、ほとんどだれも触れないのだ。

結論からいえば、文久2(1862)年10月17日の京都における松陰慰霊祭はなかったに等しい扱いなのだ。これは不思議なことで、なぜなのであろうか。




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