「ディープな維新史」シリーズⅡ 靖国神社のルーツ❻ 歴史ノンフィクション作家 堀雅昭
椿八幡宮の宝刀
藩主・毛利家にとって、椿八幡宮と春日神社の2社が特別だったことは、山口県文書館蔵の『四社略系 全』の「青山左近元親」に、椿八幡宮の青山左近(元親)と春日神社の小南宮内とに地形調査をさせ、萩城建造に際して「地鎮祭」を行わせたと記されていることでも察しがつく。
この2つの神社の宮司が、萩城建設に際しての祭事を担っていたからだ。
『萩市史 第一巻』が、「春日・椿の両大宮司家は、由緒が正しく、家格が高いため、大組の家との縁組が許されてきた」と記しているのも、こうした毛利家との関係を裏づけている。
改めて青山大宮司家と毛利家の関係を眺めると、第2代目の青山宗勝の時代も、毛利秀就(輝元の長男で長州藩初代藩主)が9月の御祭礼で度々流鏑馬(やぶさめ)を見学し、頻繁に大宮司家の屋敷に来たと「青山氏系譜」が記している。
また、『椿八幡宮御由緒旧記』には、毛利秀就から宗勝が装束一セットを賜っていたとある。
第3代目の青山宗久についても、毛利秀就から装束二セットと先代の輝元の直垂(ひたたれ)を一セット拝領していたと「青山氏系譜」は示す。
椿八幡宮大宮司家墓所の「大夫塚」移転に際して、平成20(2008)年3月25日に移転奉告祭と慰霊祭を斎行した萩の鶴江神明宮の高田勝彦宮司の家は、青山大宮司家の第5代・青山敬光から分かれた社家である。その説明もしておこう。
青山敬光は享保8(1723)年4月7日に鶴江山で遷宮祭を行い、萩市椿東に鎮座する萩鶴江神明宮を創建したのである。
高田宮司家では初代を「高田数馬藤原重次」としており、第5代の高田勝範(貢)が姥倉(うばくら)運河の開削鍬初め式を嘉永5(1852)年11月18日に鶴江神明社において行っていた。
松本川河口右岸の鶴江台に鎮座する鶴江神明宮の南東部から北東方向の萩漁港まで、幅30メートル弱で約800メートルの長さに渡って掘削し、水深3メートルの運河を造ったのだ。
それがほぼ完成した安政2(1855)年6月3日に毛利筑前が250石船を航行させ、6月5日に萩椿八幡宮大宮司(青山上総介=青山清)を船に乗せて、航行安全の祈願を行い、竣工となっていた(山口県文書館蔵『忠正公伝』「第九編 第一章 姥倉開鑿の起工と其竣工)。
姥倉運河の開削の様子は、山口県防府市の毛利博物館に所蔵される「萩両大川辺・奈古屋島辺之図」で見ることができる。
ところで、椿八幡宮には毎年秋の御神幸(ごしんこう)に出されていた長さ約2メートルの祭祀用の宝刀も残されている。
「なかご」と呼ばれる柄の心部に「延宝七年正月 玉井市祐 清定 七十四歳」と刻まれているが、寛文7(1667)年に第2代の青山宗勝が死去して12年後なので、3代目の青山宗久の時代に奉納されたものであろう。
この宝刀は安政5(1858)年ごろに藩の絵師・大庭学遷(おおばがくせん)の描いた「鸞輿巡幸図」(萩博物館蔵)にも登場する。
また、上蓋に「八幡宮御太刀 宝永元年九月十一日」、側面に「大宮司 青山縫殿助 宝永元甲申歳 九月十一日」と墨書された刀箱も残っている。
興味深いのは側面に墨書されている職人名と彼らが担当したパーツ(【 】の以下の列記であった。
【磨】賀来伝之祐 同 弾右衛門 弟子 瀬川作兵衛/【金具】金子十郎兵衛 同 新三郎 同 忠兵衛 弟子 塩見源右衛門 同 藤井源兵衛 加勢 鳥野正左衛門/【鞘】五十部伝右衛門 同 太郎/【塗】高橋與三右衛門 同 弥三郎/【柄巻】中山喜左衛門/【帯採】石川佐右衛門/【御太刀箱鏁前共】 関屋太兵衛/【同角鉄】玉井平右衛門/【同鏁鎰】月行司弥大夫
宝刀は萩の刀工たちが藩の興隆と家業繁栄を祈念して奉納したものであったようだ。
武(もののふ)の魂を祀る長州藩士の神社から、幕末に招魂祭のリーダーとなる青山清が登場したのも、考えてみれば不思議な符号であった。
しかしこの宝刀の保存を萩博物館に申し入れたが、刀身に浮き出したサビを理由に無下にも断られた。同様に山口県側にも文化財指定を求めたが、価値が定まってないとの理由で同じく却下された。
靖国神社が長州由来である維新史の消滅も、こうした郷土の実情に表れているように見える。
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