「ディープな維新史」シリーズⅠ 厚南平野の怪❸
厚南平野の怪❸
歴史ノンフィクション作家 堀雅昭
明治維新と石炭局
現在の宇部市原校区に「石炭会所」が設置された理由は、船木宰判が石炭局を創設したからであった。
その話は山口県文書館蔵の毛利敬親の評伝『忠正公伝』の「第二三編 第六章 維新後の産業 其三 八 炭鉱業」に見える。
それによると、長州藩は討幕用西洋銃器購入の延長線上に、明治元(1868)年4月17日に青木群平を撫育方の管理下にあった妻崎(新)開作に派遣していたのである。
青木は周防大島の地下医であり、幕末に長崎に派遣されて、武器商人のトーマス・グラバーからミニエー銃など討幕用の武器を仕入れる仕事に従事していた人物だ。むろん資金は長州藩の裏金であろう。
長州藩は三田尻海軍局が招聘したアメリカ人ベデルから近代的石炭採掘法を教えてもらい、石炭の採れる妻崎に西洋式石炭開発のための坑道用排水ポンプ(蒸気ポンプ)を据え付ける計画を立ち上げていた。そのためのポンプを選定するため、青木は妻崎に派遣されたのだ。
開国後の日本は、欧米のような近代社会を築く必要に迫られていた。
宇部では最後の領主・福原芳山が、すでにイギリスに密航してもいた。
長州藩の討幕運動を裏から支えたイギリスの国力が、石炭をエネルー源とした工業力にあることは、芳山が書簡などで随時長州藩に報告している。
近代化のモデルはイギリスにあり、近代的な石炭採掘のモデルもイギリスにあったのだ。
実は、明治元年2月に井上馨が長崎に着任していたことも、船木宰判の石炭開発に影響を与えていた。
いまだ戊辰戦争のただなかの話だ。
井上は長崎製鉄所で討幕用の国産ライフルの製造を試みたが、鉄を溶かす燃料の石炭が足りず、長州藩から石炭を送って欲しいと5月27日に木戸孝允に手紙を書き送っている。
万延元(1860)年2月に長崎の商人・久松善兵衛を通じて、長州藩は外国に石炭を輸出する決定をしていた。
前置きが長くなったが、こうして妻崎(新)開作での石炭開発調査が開始されてから4か月が過ぎた明治元年8月に、長州藩は船木宰判に石炭局を開設したのである。
小倉戦争(四境戦争)で占領した豊前から採炭した石炭の販売や徴税に至るまで、一括管理するつもりだったようだ。
『朝廷江御願出控 壹』(山口県文書館蔵)によると、文久3(1863)年5月に、横浜港からイギリスに密航した5人の長州人、すなわち長州ファイブのひとりであった井上勝(野村弥吉)が、明治元(1868)年11月にイギリスで学んだ石炭採掘を実践するために帰国した。イギリスから送る手はずの鉱学書籍が遅れるので、少し待って欲しいと政府に申し出ていた。
この嘆願書はイギリス留学中の福原芳山たちが連名で書いたものだ(メンバーは土肥又一〔毛利幾之進〕、芳山五郎介〔福原芳山〕、音見清三郎〔河瀬安四郎〕、河北義次郎〔俊弼〕、天野清三郎〔渡邊蒿蔵〕、藤本磐蔵〔以上がイギリス留学中〕、飯田吉次郎〔オランダ留学中〕、青木周蔵〔プロイセン留学中〕たち)。
長州藩へ討幕用の武器を流していたトーマス・グラバーにとっても、近代的な石炭開発は武器売買に代わる新規事業だった。
実際、慶応3(1867)年の春に、福原芳山がグラバーと共に長崎からイギリスに渡ったとき、グラバーはイギリス式の石炭開発への商売替えを考えていた。
グラバーは年明け早々の明治元年1月に日本に戻ると、長崎の伊王島の南に浮かぶ高島(周囲6.4キロ)で閏4月に鍋島藩と契約を結び、高島炭鉱を共同開発に着手している。
長州藩の船木宰判の石炭局の創設は、こうしたグラバーの動きとも連動していたのである。
石炭局は、明治3(1870)年6月に高島炭鉱のイギリス人技術者・モーリスを藤山(現在の宇部市藤山。当時は藤曲の地名)に招聘し、炭鉱開発に従事させていた。
そこは奇遇にも筆者の家の近くで、善福寺の裏手の住宅地界隈(中ノ坪の一帯)である。地元では「唐人炭生(とうじんたぶ)」(『ふるさと藤山』)と呼ばれていた。国人はみな「唐人」の名で総称されていたため、モーリスも「唐人」だったのである。
ともかく、この場所でグラバーと鍋島藩が共同開発していた高島炭鉱をモデルにしたイギリス式の石炭開発を試みたわけである。
だが、良質の石炭が採れないまま、計画は頓挫した。
モーリスは1ヶ月ほど藤山に滞在した後、7月には肥前久原(現、伊万里市山城町久原)で同様の試掘を試みるが、やはり成功せず、ついにはグラバー商会も8月に倒産するのである。
日本はいまだ産業革命を迎えていなかった。
近代的な石炭開発が実を結ぶまでには、もう少し時間が必要だったのである。
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