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「ディープな維新史」シリーズⅢ 維新の真相❶ 歴史ノンフィクション作家 堀雅昭
山口大学のルーツは山口明倫館
山口県宇部市の琴崎八幡宮は、この地域の総鎮守であり、かつ平安時代の貞観元(859)年に創建された古い神社である。
そして江戸時代には宇部領主・福原家の氏神となったこの琴崎八幡宮が、討幕の烽火を上げることになるのである。
福原氏は、毛利家の永代家老であった。
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さて、「琴崎」の名称ついて思い出すのは、毛利家が徳川家に敗れて長州入りする前の居城「郡山城」の近くに、福原家の山城「鈴尾城」=「福原城」があったことだ。
その跡が安芸高田市吉田町に残っている。広島市街から35~6キロ北東に位置する中国山地の只中に位置する人口3万人ほどの山間地で、そこに毛利元就の生誕地伝説があり、実にその近くに琴崎城跡があるからだ。 付近には可愛川(かあいがわ)=江の川(ごうのがわ)も流れている。
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実に、これらの城跡と川の位置関係が、以下のごとく福原家の移入後の宇部と重なるのである。
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安芸高田市 …福原城跡―琴崎城跡―可愛川(江の川)
宇部市 …福原邸跡―琴崎八幡宮―真締川
あたかも関ヶ原の敗戦後の福原家が、安芸時代を偲んで、移住先に馴染みの地名を付けたようにも見える。そうであるなら、宇部は毛利元就伝説のある安芸高田郡の焼き直しであろう。
そんな宇部の地が、幕末に討幕の震源地のひとつになっていたのだ。
きっかけは文久3(1863)年8月18日に京都御所を幕府側の会津・薩摩藩が占拠したことである。世にいう「八・一八政変」である。
結果、7人の勤皇派公卿(三条実美〔さんじょうさねとみ〕、三条西季知〔さんじょうにしすえもと〕、東久世通禧〔ひがしくぜみちとみ〕、壬生基修〔みぶもとなが〕、四条隆謌〔しじょうたかうた〕、錦小路頼徳〔にしきのこうじよりのり〕、沢宣嘉〔さわのぶよし〕)が京都を追われ、長州に逃れた。
彼らはしばらく三田尻(現、防府市)の御茶屋(別名「英雲荘」)の敷地内にあった招賢閣に身を隠す。ところが10月に奇兵隊に煽られた沢宣嘉が、但馬国の生野(現、兵庫県朝来市生野町)で挙兵する。生野の変だ。
長州藩政府は残る6卿を過激に走る奇兵隊から離す目的で、藩主・毛利敬親のいる山口城の造営地である山口に移している。
こうして11月に、錦小路頼徳と東久世通禧の2卿が福原越後の招きで山口から宇部に来たのである。 2卿は新川の緑ケ浜で西洋大砲の試し撃ちを見学した。さらに琴崎八幡宮でも、福原家臣団の剣術訓練を見学した。そのことは、東久世の『西航日記』に書いてある。
実は2卿が山口に戻った直後(11月26日)、山口城に付随する山口明倫館が開校していた。
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山口大学は上田鳳陽の山口講堂から数えて平成27(2015)年に創基200年を迎えたと吹聴したが、本当に重要なのは、維新革命の学問所として山口講堂からリニューアルされた山口明倫館(藩校)の方であった。
山口城と山口明倫館は、文久3(1863)年5月の攘夷(外国との交戦)決行に併せて、攻撃を受けにくい内陸部に造られた秘密の城と藩校だった。
こうした流れの中で、長州藩は外国と戦うために身分にとらわれない実力重視の西洋式兵制を採用したり、西洋式大砲や西洋銃陣(ライフル銃の使用)などを導入したりしたのだ。
実際に、山口城は、これに対応した西洋式城郭であった。
それはつまり、旧来の徳川幕藩体制の制度や価値観、方法論の枠から飛び出すものだった。
山口城はのちに討幕の拠点となるが、面白いことに造営の工事総責任者(造営総奉行)は宇部領主の福原越後であった。
そして付属の山口明倫館の国学者が萩の椿八幡宮第九代宮司で、維新後に靖国神社の初代宮司に就任する青山上総介だった。
付言すれば、同じく山口明倫館の洋学のリーダーが兵学寮にいた大村益次郎である。この人も、維新後に東京九段の創建を主導したことで、靖国神社社頭の銅像となっている。
実に靖国神社の初期人脈が、幕末の山口明倫館人脈であったことになろう。
ともあれ文久3年が幕を閉じ、年が明けた元治元(1864)年4月に7卿のひとり、錦小路頼徳が下関で病死した。
つづいて5月25日に楠正成を祀る楠公祭が山口明倫館で斎行されたが、時を同じくして錦小路の遺体を山口赤妻の地に葬り、赤妻神社を創建している。
このとき、楠公祭を準備したのも山口明倫館の青山をはじめとした国学者たちであり、赤妻神社の創建にも青山が関わっていた。
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靖国神社のルーツである長州藩の招魂祭のスタートが、早くもこの時期に幕を開けていたのだ。
もう一つ重要なことは、このときの楠公祭に藩主の毛利敬親をはじめ、福原越後たちが参列者していたことだ。それが討幕開始のスイッチとなり福原越後、国司信濃、益田右衛門介の3家老が京都に進撃する禁門の変が起きたのである。