「ディープな維新史」シリーズⅧ 維新小史⓭ 歴史ノンフィクション作家 堀雅昭
大阪「阿倍野墓地」の招魂碑
宇部護国神社の旧社地(維新招魂社跡)の招魂墓の一柱に「秋本作兵衛」と刻まれている。その戦死者の子孫が、護国神社総代会長の秋本宜正さん(昭和10年生まれ)だった。そこで私は中村二丁目の自宅にお邪魔して、昔の話をお伺いした。
秋本宜正さんは、「うちは農兵として禁門の変に参加しました」と教えてくれた。
つづいて父の貞雄さんが作成したという家系図を広げた。
なるほど、作兵衛(元治元年7月死去)…忠平(大正12年5月死去)…巳之作(明治39年4月死去)…貞雄とつづいている。宜正さんは作兵衛の玄孫だった。
「私が上宇部小学校の4年生のときが終戦で、その少し前ですが、ウチにあった刀と槍を強制的に取られましたよ」
戦時下ゆえ、武器製造の原料とするため、昭和18年8月に官民所有の金属を回収する金属類回収令が出ていたのだ。
「そうでしたか。その刀や槍は、幕末に作兵衛さんが使われたものでしょうか」
「多分そうでしょうね」
刀は鞘に入った日本刀だったという。槍のほうは6尺(約1.8m)程度の大きさだったらしい。
「作兵衛の碑は大阪にもあるんです。私の兄の勝巳が写した写真がありますので、ご覧になりますか」
口にしながら宜正さんが茶封筒から取り出した写真の1枚目には、昭和31年に長友会が建立した「顕彰碑」が写っていた。碑の表面に以下の文面が刻まれていた。
「ここに祀る四十八霊は長洲(ママ)毛利藩の士卒で元治元年六月伏見鳥羽に出陣し戦利なく傷ついて引揚げる途中 大阪桜之宮で捕えられ投降を強いられたが 義を重んじ節を守つて悲痛の最期を遂げられた憂国不遇の烈士である」
別の写真には「顕彰碑」の正面に小柄な石鳥居が鎮座し、護国神社の招魂碑とは少し違った切妻屋根のような頭頂部の招魂碑が並んでいた。
「これがそうですよ」
宜正さんが指さしたところに「秋元作兵衛」と刻まれた招魂碑が写っていた。
宇部護国神社の招魂墓と同じで「秋本」姓が「秋元」となっているのは石工が誤って刻んだと宜正さん。写真の裏に「撮影日 1999年(平成11年)12月12日」、撮影場所も「大阪市阿倍野区阿倍野筋(四)市営南霊園(阿倍野墓地)とペン書きされていた。
宜正さんは墓碑の写真を眺めなら、「わたしも、いつか行ってみたいと思っているんです」とつぶやいた。
阿倍野墓地の四八士の招魂碑は、もともと大阪市天王寺区夕日ヶ丘町に鎮座する大江神社に祀られていたものらしい。それらが阿倍野墓地に移され、現在は大江神社には、「旧山口藩殉難諸士招魂之碑」が鎮座するだけということだった。
なお、山口県文書館には「元治甲子京師変動殉難士埋骨招魂一件書類」と題する文書がある。
ここに「在大阪」の山口県人たちが明治22年7月付けで、大江神社境内の「四十八士」の墓を「阿倍野村墓地」に「改葬」し、境内に前出の「招魂之碑」を建てる「建設概略」を記していた。