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「ディープな維新史」シリーズⅧ 維新小史❷ 歴史ノンフィクション作家 堀雅昭

宇部護国神社の創祀


宇部護国神社の創建は、崩山(くずしやま)の地を拓いて社殿が落成した慶応2(1866)年11月19日である。これは『宇部村誌』にもそう書いてあるので、多くの人は宇部護国神社の誕生がそのときと思っている。だが、それは建物が出来た時期で、主祭神不在の空っぽの容器が完成したに過ぎない。
 
招魂社のスタートは戦死者が招魂祭で祀られて神となったときである。
 
宇部護国神社の呼称は昭和14(1939)年4月からで〔※1〕、それ以前は維新招魂社と呼ばれていた。すなわち幕末維新期の犠牲者を祀る招魂社だった。
 
そこで主祭神である福原越後が祀られた時期が、神社のスタートになり、これを創祀という。

琴崎八幡宮に合祀された毛利家永代家老の福原越後(宇部・渡邊家蔵)


では、福原越後が神として祀られたのはいつか、である。
 
結論から言えば、慶応元(1865)年5月16日であった。
 
招魂祭を斎行した場所は、宇部護国神社からほど近い琴崎八幡宮である。
 
専用の維新招魂社の建物がまだ出来てなかったので、琴崎八幡宮に神として祀ったのだ。このときの祭主は嗣子の福原芳山で、祭事を取り仕切ったのが萩の椿八幡宮第九代宮司の青山上総介である。本シリーズでたびたび登場する、後に靖国神社初代宮司になる青山清である。

青山清(青山上総介・靖国神社蔵・部分)



維新招魂社の社殿ができる前に、招魂祭が行われ、主祭神が誕生していたわけである。
したがって、維新招魂社の創祀は慶応元年5月16日となるのである。
 
こうして、琴崎八幡宮に福原越後が神として祀られて、1年半後に完成した維新招魂社に福原越後のご神霊が遷されるわけだが、しかし、すぐには遷座いかなかった。
 
『宇部村誌』には慶応3(1867)年12月5日に遷宮祭を行ったと見える。
 
京都で鳥羽・伏見の戦いで戊辰戦争に突入する直前に、琴崎八幡宮から福原越後の神霊が維新招魂社に遷されていたのだ。したがって現在の宇部護国神社の原形が完成したのが、このときであった。
 
実は、青山上総介(青山清)は、生前から毛利家永代家老の福原越後と付き合いがあった。
 
時代は、長州藩の攘夷決行に際して、文久3(1863)年4月に藩主・毛利敬親が山口入りをした時期にさかのぼる。これ以後、山口の地に秘密裡に山口城の造営が始まったときの普請総奉行(ぶしんそうぶぎょう)こと建設総責任者が福原越後であったのだ。
 
山口城のあった新たな藩庁・山口の地は、革新の気風に満ちていた。

デフォルメされた山口城の絵図「山口城之図」(山口市歴史民俗資料館蔵)


こうして西洋式の軍隊に対応した秘密の城郭が新たに造られることになり、付属の藩校も山口明倫館として元治元(1864)年11月に新設されることになるのである。これに前後して、萩にいた青山上総介は国学振興の命を受け、山口明倫館の編輯局に勤務していたのである。そして編輯局で、他の国学者たちと協力して元治元年5月25日の山口明倫館での楠公祭を準備し、この楠公祭にも福原越後が参列していた。この話は山口県文書館の石川卓美『防長護国神社誌 招魂社起源考』に出てくる。

石川卓美『防長護国神社誌 招魂社起源考』に出てくる山口明倫館編輯局と「上総」こと青山上総介(戦前・山口県文書館蔵)


ちなみに、この祭事の直後に、福原越後は宇部兵を率いて禁門の変に身を投じたのである。
 
禁門の変の目的は、自らが建設を指揮していた山口城に孝明天皇を奪い取ってくることにあった(『新選組戦場日記』の「元治元子年六月六日之事」)。だが、これに失敗して幕府から責任を問われる形で福原越後は自刃に追い込まれたのだ。それが元治元年11月だった。
 
それから半年が経ち、前掲のように、青山上総介が琴崎八幡宮に福原越後の神霊を合祀したことになる。それが後に社殿ができた維新招魂社、すなわち宇部護国神社の創祀なのである。
 
知られざる幕末維新史が、実は山口県でも埋もれたままになっているのだ。
 
〔※1〕昭和14(1939)年3月16日付『宇部時報』「招魂社を護国神社 4月1日より改称」。
 





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