「ディープな維新史」シリーズⅧ 維新小史❼ 歴史ノンフィクション作家 堀雅昭
革命を求める楠公祭
山口で藩主父子が錦小路頼徳(にしきのこうじよりのり)の初月祭を行った元治元(1864)年5月25日に、近くの山口明倫館では楠公祭が斎行されていた。
それは南朝方の天皇・後醍醐天皇に殉じた楠正成(くすのきまさしげ)を神として祀る革命の神事であった。
孝明天皇は北朝方の天皇なので、南朝方を顕彰する神事は、体制変革のスイッチだったのだ。
幕末の長州藩、、楠公に最初に傾倒したのも吉田松陰だった。
嘉永4(1851)年3月18日に松陰は湊川で楠正成の墓を詣でていた。
このとき松陰が入手した「楠公湊川碑拓本」が、山口県文書館に保管されている。
つづいて松陰は、21日には伏見に至って「楠公墓下作」という詩を作っていた。はやくも、このとき「人間の生死何んぞ言ふに足らんや」と、命を投げ出す覚悟を悟っていた。そして有名な「七生説」となるのである(福本義亮『大楠公と吉田松陰』・山口県文書館蔵)。
そんな革命を求める楠公祭を準備したのは、藩校・山口明倫館の編輯局にいた青山上総介(青山清)をはじめとする長州藩の国学者たちだった。
山口明倫館の場所は「幕末山口市街図」の「御屋形」と記される後の山口城(現在の山口県庁の場所)から下った場所の、現在の亀山のふもとに「明倫館」と記されている場所である。
ここで斎行された楠公祭は、藩主・毛利敬親が、世子の元徳や毛利元敏(長府毛利家世子)、毛利元功(徳山毛利家世子)を率いて、祭壇の前で祭文を読み上げるというパブリックな神事であったのだ。
また、参列した福原越後は長州藩の「当職」、すなわち藩主・毛利家を代行する行政事業の総元締めという立場であった。
そんな福原越後が、浅見絅斎(あさみけいさい)作の「大楠公桜井の駅遺訓の長歌」を自ら刻み、版本として配ったことが『贈正四位福原越後公伝』(大正5年刊)の以下の記述からわかるのである。
「元治元年五月、藩内一般の士気を鼓舞し、勤王の誠を諭さしむべく摺本を製作して藩内に配布せしめらる。版木の文字は公の揮毫に係る。而して該版木は宇部村紀藤閑之介氏蔵せらる」
実際、その歌を刻んだ版木が、後に宇部市長となった紀藤閑之介(旧福原家臣)が所有しており、昭和16(1941)年7月1日付の『大宇部』が「紙上郷土博物館 一、楠公遺訓の歌を彫った板」と題して紹介していた。縦四尺一寸三分、横九寸五分、厚さ五分の板の表面に、つぎの歌が刻まれていたらしい。
「其時(そのとき)正成(まさしげ)、はだの守りをとり出(いだ)し。これは一とせ都(みやこ)ぜめのありしとき、くだしたまへる綸旨(りんし)なり。我ともかくもなるならば、尊氏が世となりて、芳野の山のおくぶかく、叡慮なやませたまはんは、鏡にかけてみるごとし…」
歌の主題は、建武3(1336)年5月23日から24日にかけて、湊川の合戦で楠正成(くすのきまっさしげ)が兵庫に下った際、討ち死にを覚悟して700の騎兵を連れ、残りは後の戦いに備えて河内へ戻るよう息子の正行(まさつら)に指示して分かれた「父子決別」の悲哀あふれる『太平記』の逸話である。
なるほど、足利幕府軍に破れた正成が自刃した日が5月25日だったのだ。
福原越後が楠公祭で配った版木の写真は、山口県文書館に「福原越後筆楠公碑文」と題して保管されている。
そして紙に刷ったものが1枚だけ維新山の林家(第2代宇部市長の林仙輔の家)に残っていたという。
また、昭和17年5月刊の「宇部文化 第10号」で、田中紀氏が「福原越後香典㈤」で語るところでは、福原興自筆の草稿が大小路の西村友信に払い下げられ、現在の当主の西村策朗の手元に残っているとしている。
ともあれ革命に向かう楠公祭に参列した福原越後は、宇部兵を率いて禁門の変に身を投じ、京都御所に攻め入り、孝明天皇を山口に連れ帰ろうと工作するのだ。ところが、これに失敗したため、元治元年11月には幕府から罪を負わされる形で自刃したのであった。
福原家を継いだ粟屋駒之進が、福原芳山を名乗ったのは先代の越後を偲び、『太平記』に出てくる南朝のシンボル「吉野の山」=芳山に因んだものであろう。
維新の革命精神とは、未完の幕末のファシズム革命の続きであった。
宇部は「維新」の発祥地である。
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