「ディープな維新史」シリーズⅥ 禁断の脱隊兵騒動❹ 歴史ノンフィクション作家 堀雅昭
脱隊兵の絵師・森重雪島
山口市阿知須の中川進さん(昭和23年生まれ)に連れられて、山口市名田島で自然農法塾「元気塾」を主宰している長廣範夫さん(昭和21年生まれ)に会いに行った。
陶ヶ岳の西麓で向山上(むかいやまかみ)会館の斜向かいだ。
長廣さんは脱隊兵騒動に連座した後に絵師になった森重雪島(せっとう)こと森重浅治郎雪島の曾孫である。
中川さんの祖先で、廻船業で財を成した中川令辰の書いた『比斎日誌』(阿知須図書館蔵)にも森重雪島は登場する。
現在、阿知須地域のイベント会場となっている「いぐらの館」が中川令辰の屋敷跡だが、庭に「三階楼閣」が建てられた直後の明治18(1885)年9月から12月にかけて雪島が室内に装飾画を描いていたのである。
なかでも12月6日の「此日雪島子始画鬼図」という日記の記述に沿う鬼図の水墨画が、中川家と縁続きの旧庄屋・江口家に残されていた。
そのことを知って雪島の子孫に会ってみようと思ったのだ。
長廣さんは語った。
「脱隊兵騒動で萩の三島に流されて3年過ごした後、名田島で塾を開いて、絵だけでなく読み書きそろばんも教えていたようです」
中川さんが持参した上下2巻揃いの『本朝 画家人名辞書』(明治43年刊)の下巻に、「森雪島ハ周防ノ人ナリ画ヲ廣洞僊ニ学天保十二年生」と書いてあった。
「森雪島」が森重雪島のことだ。また、絵の師匠「廣洞僊」というのは『増補近世防長人名辞典』に見える「廣洞仙」のことだ。
昭和54年刊の『小郡町史』には「広洞僲」の名で登場する絵師である。雪島より24歳年長者で、地主の得重伴右衛門の子として小郡に生まれながらも家運が傾き、厚狭郡の東隆寺の臣となり、梅花や鯉魚を得意とした萩の絵師・小田海僲に学んだ絵師であり、雪島もその影響を受けたようだ。
そのうちに雪島の孫の森重敏行さん(昭和7年生まれ)がやって来た。
長廣さんの叔父である敏行さんは挨拶を済ませるなり、カバンからビニール袋を出して、「雪島が脱隊兵騒動の前に所属していた鋭武隊の袖印が入っています」と説明しながら、朽ちた布を中から引っぱり出した。
シワだらけの黄ばんだ絹のちりめんを伸ばすと、「長藩 鋭武隊 森重浅治郎」と墨で書かれていた。雪島の本名である。
敏行さんはつづけた。
「浅治郎さんの弟に菊次郎という人がいましてね。下関で外国艦隊と戦ったときに戦死しました。下関の赤間町のお寺に参りに行ったことがあります」
森重浅治郎については『覆刻 櫻山神社顕光録 ―櫻山神社沿革史―』に22歳で戦死した記録と共に、「名田島農業浅次朗の弟。膺懲隊小頭。元治元年八月六日馬関辻之堂山で戦死。墓は下関・本行寺にあり」と説明書きがある。
敏行さんは、「兄の浅治郎(雪島)も戊辰戦争に従軍し、会津戦争で敵の弾が刀鍔に当たって横にいた人を傷つけたと聞いています」と教えてくれた。
それから私たちは名田島の雪島顕彰碑を訪ねることにしたのである。
山口小郡秋穂線の道路沿いに並ぶ墓石の中ほどに「雪島森重先生碑」と刻まれた大人の背を超える自然石が堂々と立ち、裏に「明治四十四年五月」という文字が刻まれていた。
雪島が70歳のときに門人たちが建てたものらしい。また、碑に向かって左手に鎮座する「森重家累世之墓」は、雪島の長男の鴻輔が昭和7年6月に建てた墓だった。
その墓と顕彰碑の前で、私が思い浮かべたのは中川令辰が明治元年に山口後町に開いた私塾・鶴鳴堂(かくめいどう)のことだ。
この塾から脱隊兵騒動に連座した塾生が多数出たことで明治5年に閉鎖に追い込まれ、令辰は阿知須に戻って花園小学校と阿知須小学校の初代校長を歴任していた(『阿知須町史』)。むろん雪島も、そのとき鶴鳴堂で学んだ一人であったのではないかと感じたのだ。
平成29(2017)年2月には、森重雪島の絵画展示会が山口南総合センターで開かれた。