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「ディープな維新史」シリーズⅧ 維新小史❾ 歴史ノンフィクション作家 堀雅昭

維新招魂社の最初のころ


明治維新の震源地・長州の宇部において、崩山(くずしやま)招魂場の異名を持つ維新招魂社に、福原越後の神霊が琴崎八幡宮から遷されて(慶応3年12月5日)から6年目(明治6年12月)に『明治六年 招魂場記録』がまとめられた。その原本が山口県文書館に所蔵されている。
 

「明治6年 招魂場記録」表紙(山口県文書館蔵)


この資料によって創祀、創建から間もない維新招魂場の様子がわかる。
冒頭に、境内の略図が所収されているからだ。
 

『明治六年 招魂場記録』に見える初期の維新招魂社の境内略図(山口県文書館蔵)


向かって右手が北で、北の端に「墓所」が見える。
その左側に「神壇」、手前に「拝殿」が描かれている。
現在、宇部護国神社の拝殿に向かって左手に旧社地がある。
 
参道の階段に向かって左手に車で社務所まで登れる道がついているが、右にカーブして社務所の前の駐車場に停めて、登って来た道をそのまま徒歩で直進して坂を登りきったところが昔の維新招魂社の場所である。
 
森に囲まれた薄暗い空間の最上段に、かつて神殿があったが、今では昭和22年に設置された「殉国戦士之碑」が鎮座する。両脇には招魂墓が並ぶ。どうやら、その姿は最初のままではなかったようだ。
 

旧維新招魂社(現、宇部護国神社の境内の一角・平成23年5月)


『明治六年 招魂場記録』の境内略図に見える「神壇」は、幅が「七尺七寸」(約2.3m)、奥行きが「九尺七寸」(約3m)四方とある。ここに福原越後の神霊が祀られていたのだ。
その前に位置する「拝殿」は、幅が「一丈三尺」(約4m)、奥行きが「九尺」(約2.7m)四方である。
 
境内略図には、「維新社敷境内七畝(せ)廿ト」とも書いてある。
一畝が約100㎡なので、「七畝」で700㎡だ。
 
「廿ト」の「ト」は〈歩〉を〈分〉とも書き、これの略字ゆえに20歩のことである。
一歩が約3.3㎡なので、「廿ト」では66㎡。すなわち社域「七畝(せ)廿ト」は約766㎡となる。一辺が約28m弱の正方形の土地といった感じだろう。
 
正確に測ったわけではないが、宇部護国神社の拝殿に向かって左手に旧社地があるが、だいたいその程度の広さに見える。
 

旧維新招魂社敷地の福原越後記念碑(右・平成26年9月2日)


境内の広さは、最初から同じ程度の広さだったのだろう。
境内略図には「内 四坪 建家坪」とも見える。
 
〈一坪〉と〈一歩(分)〉は同じて、畳2枚分(2畳)である。
建物の面積は〈坪〉、田畑林野の面積は〈歩(分)〉と表わす。
 
つづいて「残 七畝十六ト」と見える。
これは総面積から建物の四坪(歩〔分〕)を引いた残りの広さである。
つぎに「記」として、招魂場の場所が「宇部村ノ内字崩シ村」と記されている。確かに「崩シ」の地名が確認できる。崩山招魂場の地名由来である。
 
つづいて、「招魂場 壱ヶ所/此墳内 三反七畝廿ト 無税地/内 七畝廿ト 社敷/三反 山地」とある。
維新招魂社所有の山地「無税地」三反(さんだん)(約3000㎡)のうち、境内が「七畝(せ)廿ト」(約766㎡)なので、神社所有地の1/4程度が境内になっていたようだ。
 
以上が宇部の革命神社「維新招魂社」の最初の姿であった。





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