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「ディープな維新史」シリーズⅧ 維新小史❻ 歴史ノンフィクション作家 堀雅昭

錦小路頼徳を祀る


文久3(1863)年11月に、宇部に来て「維新館」の編額を記した錦小路頼徳(にしきのこうじよりのり)は、その後、東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)と一緒に山口に戻った。そして翌年(元治元年)春に、残りの四卿(沢宣嘉〔さわのぶよし〕は文久3年10月の生野の変に挙兵して不在)と連れ立って下関に向かった。下関の桜山招魂場の視察のためである。桜山招魂場(現在の桜山神社)の姿は、『桜山歌集』で見ることもできる。
 

『桜山歌集』に描かれている桜山招魂場(山口県文書館蔵)


『奇兵隊日記』の元治元(1864)年2月3日に「新地招魂場、今日より始て開拓」とあり、翌2月4日に「招魂場開墾」と見えるので、この時期から桜山招魂場の工事が始まったのだろう。
 
一方で「白石正一郎日記」の3月27日に、工事中の招魂場に六卿が視察にきたことが記録されている。ところが翌28日には錦小路の体調が悪化し、「茶室へ御休被遊候」となり、どんどん調子が悪くなって4月25日に没したのだ。
 
錦小路の遺体は、新たな藩都となった山口城近くの赤妻の地に埋葬された。
 
そして元治元年5月25日、山口明倫館で最初の楠公祭が斎行されたその日、埋葬地に藩主・毛利敬親と世子の元徳が侍臣の宇野衛守を遣わして魚菜を備えて初月祭が行われるのである。
 
その後については『忠正公伝』(一六編 四章 一二節 三項「錦小路頼徳の卒去と赤妻埋葬」)が、次のように伝えている。
 
「二十八日、青山上総に祝詞をなさしめ、翌二十九日、朝倉迫山に社祠を建て、安加都麻神社と称せしめたり」

『忠正公伝』(一六編 四章 一二節 三項「錦小路頼徳の卒去と赤妻埋葬」)山口県文書館蔵。
青山上総介(青山清・靖国神社蔵・画像加工)


後に靖国神社の初代宮司となる青山清(青山上総介)が錦小路頼徳の招魂祭を行ったことで祠が建てられ、安加都麻神社こと赤妻神社が創建されるのである。

赤妻神社(錦小路神社)平成26年3月


赤妻神社は、現在は小さな祠だけしかないが、山口県文書館所蔵の「官祭招魂社図面」には墓石が鎮座する広い境内に拝殿と本殿が描かれている。

赤妻神社(山口県文書館「官祭招魂社図面」)


面白いことに京都の霊明神社にも赤妻神社の絵図が残されており、〈本社〉〈拝殿〉〈御霊社〉〈詰所〉〈番所〉などが描かれている。

霊明神社に所蔵される「赤妻山図」


ところで工事中だった桜山招魂場にも、錦小路の遺品が埋葬されて墓標が建てられていた。
「馬関に在りては頼徳の遺品(五品は四品の誤)烏帽子壹頭 狩衣 及ひ 袴各壹領 扇子壹握 並に 自咏一首(よの人に といへかくいへ 君かため つくす誠は 神そしるへき)を新地招魂場に瘞埋(えいまい)し 茲(ここ)に墓標を建てゝ永く其忠魂を慰むへきに決し 五月九日 政務座役は老臣の命にて之を久芳内記 佐世八十郎に報して處理せしめたり」(『忠正公伝』(第一六編 第四章「錦小路頼徳の卒去と赤妻埋葬」)
 
錦小路の遺品埋葬は、招魂場開設のための地鎮祭であったようだ。
 
宇部、下関、山口にゆかりのあった錦小路の肖像画は、京都の霊山(りょうぜん)歴史館に所蔵されている。
 








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