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里山の生と死のドラマ(2022年9月)

2か月ぶりの里山
2022年9月3日、秋雨前線の停滞しがちなこの季節では珍しく天気のいい日に、2か月ぶりに八王子の里山に行きました。こんなに間が空いてしまったのは、今年の暑さは半端でなくて行く気になれなかったこと、児童養護施設とは小川で気持ちよく過ごせるさとごろりん(空き家を改装した児童養護施設のための里山付き別荘)に通っていたこと、新たな里山確保調整に向けてついずっと通ってきた里山の方から足が遠のいていたことからです。

しばらく間が空いてしまったときには、私はいきなり子どもたちと里山に入るのではなく、事前に里山に入るようにしています。たった数か月間で里山の様子がけっこう変わってしまうことがあり、子どもたちと安全に楽しく過ごせるよう事前の確認や準備が必要になるからです。

そんなとき里山がどんな感じで変化しどんな対応が必要になるのか、今回を例にご紹介しますとこんな感じです。里山の入口にある地元の方が手作りした小橋は草に覆われて渡りにくくなっていまして、周りを草刈りするところから始まります。山道にはクモの巣がハードルのようにたくさん張られていて、最初に入る人は自分が絡み取られないよう、枝を手に振り回すなどして巣を破りながら進んでいく必要があります。

頂上付近までやってくると、斜面の脇にあった大きな枯れ木がついに倒壊していて、隣のそれほど太くない木に不安定なまま引っかかっていました。大人が両手を回しても届かないほどの太さなので人力では何ともなりません。ただ、人の通らない斜面側に倒れたので近づかないよう注意喚起しておけば済みそうでした。ハチの巣がもし人の集まる広場や道にできていたら面倒だなと探してみましたがそれは杞憂に終わりました。まだダニやヤブ蚊などの多い時期なので、どの程度いるのか、どんな対策すればいいのかも身をもって確認します。

里山の状況だけでなく、備品の確認や整理も必要になります。以前サルの仕業で道具箱が開けられ雨がたまって道具が水浸しになっていたこともありました。こうなってしまうと備品をあてにした活動には支障が出てしまいます。また、水タンクにどの程度水が溜まっているのか、アスレチックやブランコのロープや支える木は大丈夫かといったこともチェックします。

その上で、いま里山でどんな作業が必要かを考えて、自分で少し作業を進めてみます。そうすると今何が足りないのか、次回どういうふうにすればいいのかが明確になるからです。今年の春、小学校低学年の子どもたちが参加したときに、ツリーハウスに登りたがって大人の目の行き届かないところがありましたので、枝の少ない木を伐ってきて柵をつけてみました。次回も細めのロープを追加調達しておけば、みんなで装飾を施しながら作れそうです。
ビニール製の雨水タンクが風か動物によって壊れてしまっていましたので、持ち帰って自転車のタイヤ補修パッチで穴を補修したものを設置し直しました。水があると、汚れた手洗いや消火に使えるのはもちろんのこと、水鉄砲合戦といった企画もできて活動の幅が拡がるのです。

こんなふうにして、まずは運営者の目線で里山に入っていくのですが、実はもう一つ別の目線も持つようにしています。それは観察者の目線です。特に、夏から秋への季節の変わり目のこの時期には、里山にはたくさんの生死のドラマがあふれています。ここからは、私が観察者として里山をどんなふうに見ていたのかをご紹介しましょう。

キノコの山

まだ高温多湿なこの季節、落ち葉や倒木から、形も、大きさも、触感も、色も本当に多種多様なキノコたちが至る所に顔を出しています。キノコというのは本当に不思議な生き物です。私たちは今見えているキノコの姿が一つの生命体のように勘違いしますが、実際にはそれは子実体といういわば「実」の部分にすぎません。風や動物たちによって運ばれて子孫を増やすための手段にすぎず、生命体としてのキノコの実態は地中にあって見ることができません。しかしそれは、キノコとして私たちがイメージする大きさとは比較にならないほど巨大な生きものです。

そしてこの生命体は、里山の生態系の中では、木々のような生産者、私たち動物のような消費者と異なって、「分解者」という特別な位置づけを与えられています。植物や動物たちの死骸を分解し、養分や水や二酸化炭素に変えてまた植物や動物たちの生きる源を作り上げていく、つまり里山を再生させる大事な役割を担っているのです。

青いドングリ

たくさん葉っぱつきの青いドングリが広場にはたくさん落ちていました。今私の目の前にあるコナラからも次々に落ちてきます。青いドングリまだ成熟の過程にあって当然ながらこれでは発芽しません。不思議に思って調べてみると、「チョッキリ」という虫のしわざのようです。

栄養豊富なドングリには多くの虫たちが卵を産んで幼虫のゆりかごにしようとします。でもドングリで子孫を増やそうとしていたコナラにとってはたまったものではありません。そこでコナラは苦いタンニン成分を蓄えることによって虫に食べられにくくするよう進化しました。しかしさらにそれに対抗して、チョッキリはタンニンがたまる前のドングリが青いうちに枝から切り落としてドングリを活用する戦術に出たのです。虫と木の生きるための駆け引き。ここにあるのは、人間が愚かにも知能がないとさえ思いこんでいる小さな生き物たちが繰り広げる高度な生存競争なのです。

アリダンゴ

アリが団子のように塊になっていたのでよく見てみると、アブラゼミの死骸にたくさんのアリが集まっていました。夏の盛りに賑やかに鳴いていた無数のセミたちはその役割を終えて死んでからも他の生命を支えているのです。私たちにとってはアリがいるから、里山がセミの死骸だらけにならずに済んでいるとも言えます。

死んだふりのヘビ

道具箱を動かしてみると、30cmくらいの長さで鉛筆くらいの太さの小さなヘビが突然現れて、ピクリとも動かずに死んだふりをしていました。カメラには収めたものの、少し目を離したすきにいつの間にか逃げられてしまいました。後で調べてみると、無毒のシロマダラと判明。準絶滅危惧種に指定されていて見つけただけでニュースに載るくらいの「幻のヘビ」でした。

コナラの粉吹き

里山にたくさんあるコナラで根元に木くずがたまっているものがかなり増えたようです。幹にも粉を吹いたような小さな穴がいくつもあります。これはいま全国の里山で問題になっている「ナラ枯れ病」の証拠です。この病気とは、カシノナガキクイムシという5mmほどの昆虫が病原菌を運んできて増殖させ、水の吸い上げる機能を阻害して枯死させていく樹木の伝染病です。私たちがツリーハウスやブランコをつくったのもコナラの木ですし、これから多くが枯れていくかもと思うと思うと先行きが心配です。

アナグマの夫婦げんか

今年の春、広場の脇に山道を作ったときに見つけた巣穴に自動撮影カメラを仕掛けておきました。そしてこの2か月間でたくさんの生き物の写真と動画を撮影することができました。アナグマが巣穴をほる様子、夫婦げんかをする様子、仲直りしてじゃれあっている様子などが映っています。喧嘩する姿なんか見たことのないタヌキと違って、アナグマ夫婦は激しい関係のようですが、喧嘩するごとに仲直りしてまた協力しながら生きている姿が、なんだかとても人間的でもあり親近感を感じました。

ミゾゴイのダンス

この自動撮影カメラには昨年初めて確認された絶滅危惧種のミゾゴイもまたたくさん映っていました。今年も東南アジアの熱帯雨林から渡ってきてくれたのでしょうか。頭を動かさずに上半身だけを動かす独特のダンスを、カメラ目線で披露してくれました。つがいの姿も確認できました。この鳥は伐り拓かれた里山環境を好むとされており、私たちが春に伐り拓いた山道を早速気に入ってくれたことをとてもうれしく感じました。

里山に入り込んで観察する

こんな感じで久しぶりの里山をじっくりと観察してたくさんの生き物と出会えたことに満足しつつ、家に帰って早速ビールを一杯やりました。そして例によってすぐ酔いが回り、またいつものように私の自問自答癖がはじまるのです――

ミゾゴイといい、シロマダラといい、この小さな里山で幻の生き物が次々と発見されるのは一体なぜでしょうか?

運営者としての私は、児童養護施設との里山開拓というこれまでになかった仕組みで里山保全が継続できているからといいたいところです。でも正直に言うと、観察者としての私がそこまで言うのは言い過ぎではとブレーキを掛けます。私たちが入る前と現在を比べて私たちにとっては里山環境は大きく変わったのですが、生き物たちにとってそこまで大きく環境が変わったかというとそれほどでもないかもと思うからです。

実はミゾゴイも、シロマダラも昔からここにいて、誰も入らなくなった数十年の間に私たちにとって未知の世界になっていただけのこと、私たちが10年以上もそきに足しげく通うようになって必然的に再発見しただけのこと、言い換えると、長年荒れた山林のことなんか誰も本気でみようとしなかっただけのことなのかもしれません。

それでは、15年間定点観察を続けてちょっとばかり里山が分かったつもりになっている私には、里山の本当の姿が見えているといえるのでしょうか?本当の姿というのは、表面的に見えているところだけでなく、そのつながりや背景も含めて受け止められる里山全体の姿のことです。

自然全体についての最も一般的な見方は、多様な生き物たちの弱肉強食によって生み出される「生態系ピラミッド」でしょう。植物→草食動物→肉食動物と階層が上がる毎に数が減っていくあの三角形イメージです。

ただし、そこでは人間自身の位置づけはあいまいにされています。

なぜかというと、生態系ピラミッドは人間にとってある意味恐ろしい考え方だからです。世界の人口はすでに77億を超え2050年には100億に至るという予測まであって、ピラミッドの頂点はすでに人間にあふれかえっていて頭でっかちになっています。生態系ピラミッドのメカニズムからすると、そこから起こるのは必然的に自然淘汰、すなわち死によって個体数を調整することです。いま社会問題となっている少子化や自殺というのは、もしかしたらこの自然淘汰のメカニズムが作用しはじめていることの現れなのかもしれません。それで、人間は、この繁栄が衰退をもたらす構造的矛盾を解消するために、人間自身はピラミッドの外に位置づけて、栽培や養殖による人工的なピラミッドを作り上げようと長らく努力してきたのです。

しかし、里山に入り込んで観察を続けてみるとこんなふうにも見えます。里山でも、一見生き物同士が熾烈な生存競争をしているように見えます。しかし、そこで生まれる勝者・敗者というのは一時的な関係にすぎず、より長い目で見ると死んで分解されて里山そのものと同化してやがて他の生命を支える源になっていくのです。生態系ピラミッドでもその関係は底辺への細い線として描かれてはいるのですが、そこはあまり強調されることなくどこか裏側に隠してしまおうという意図さえ感じるのです。

もっと里山に入り込んで全体のつながりを理解しようとするなら――それは私にはまだ不明確なイメージにすぎないのですが――きっと三角形なんかではなく、円のように頂点がなく、相互依存的で重層的な関係性を図式化した形、つまり曼陀羅のような形になるのだろうと想像しているのです。

相互依存的で重層的というのは、里山が様々な生き物から成り立ち、その生き物も他の生き物を内包して依存しあいながら存在しているマトリョーショカ人形のようなイメージです。私たち人間自身だって、実は生きている体内に他の生命体を宿しています。それは寄生虫や腸内細菌もそうですが、そもそも私たち多細胞生物は進化の過程で他の単細胞生物を体内に取り込むことによって生まれてきた、いわば単細胞生物たちとの共生によって構成された生き物なのです。私たちが生きていけるのは酸素を使ってエネルギーを生み出せるからですが、その中心的な役割を果たす細胞内のミトコンドリアは、進化の過程をたどると他の多細胞生物に寄生する単細胞生物だったのです。

私たちの生命というのは、外部の生命体を取り込むことで成立していて、たくさんの生命を体内に宿すことによってより大きな生命体を支えているのです。そして私たちの外側には生命豊かな里山があり、さらに外側には青い地球があるという、相互依存的で重層的な構造をしている気がしてならないのです。

私たちは人間というのは普段自分は自ら考えて行動し生きていける独立した存在と思い込んでいます。でも実は、他の存在を抜きにしては存在しえないのです。むしろ、体内に別の生命を宿してしか生きられない他力本願的な存在とさえいえます。人間は自然全体の一部であるという共生の思想はよりよく生きるための便宜的な考え方と思われるときもありますが、むしろ人間を独立した存在と考えることの方こそ現代都市社会特有の偏った思想なのかもしれません。

ここまで書いてみると、自分がなんだか管を巻いてばかりの面倒な酔っぱらいになっているように思えてきました・・・でも、私自身にとっては普段の固定観念から解放されるこの自由な瞬間が心地よくて仕方がないのですのです。もしご迷惑でなければもう少しばかり酔っぱらいの妄想にお付き合いください・・・

――私たち人間というのはもしかしたら、キノコと同じような子実体にすぎないのではないでしょうか?私たちの生命の本質というのは実は地中に広がる菌糸のようなつながりのなかにこそ隠されていて、地表に現れている存在というのは一時的に子孫繁栄のために現れた全体のごく一部分にすぎないのではないでしょうか。

あるいはもしかしたら、セミの成虫のような存在なのではないでしょうか?実は、私たちの本当の人生の大半というのは地表に生まれ出る前の地下の幼虫時代にあって、地表に誕生してからの数十年という短い間だけ子孫繁栄のために飛び回るはかない存在なのではないでしょうか?

もし「自分」という存在がせいぜい一時的に地表に現れたキノコやセミのような存在であって、地面の中で脈々とつながっている里山、さらにいうと地球という大きな生命体の一部分の形態にすぎないとしたら?自分の命というものも、今ちっぽけな「自分」の所有物などではなく、もっと大きな生命体の一部であるとしたら?

もしかしたら、そんな受け止め方ができるようになったときにはじめて、この複雑で矛盾に満ちあふれた現代都市社会の中でも、過剰に生きがいを求めたり、生きづらさを抱えたりすることもなく、もっと自らを解放してこの地表での生活を心豊かに生きられるようになるのではないでしょうか――

ここまでくると、さすがに私の妄想が拡がりすぎてしまったようですね・・・

でも、思い込みにとらわれることのない観察者として里山に入ることができれば、自分なりに様々な生命のつながりや、生命そのものへの理解、普段の常識への思い込み、自分自身の弱さやたくましさなどたくさんのことに気づけるというのは紛れもない事実なのです。だから、私はみんなで里山に通うのも好きですが、一人で里山に入り込むことにも大きな魅力を感じて15年も通い続けているのです。

夏の間あれほどあふれていた生き物が、これから実りの秋を経て、やがて冬を迎えて、里山から表面的には次々と姿を消していきます。でもそれは本当に無くなる訳ではありません。里山というひとつの大きな生命体は地下では脈々と鼓動し続けていて、また春になると変わらず地表に新たな姿を見せて再び躍動をはじめるのです。もちろん、私自身もその一部分として。

そんなふうに固定観念にとらわれることなく観察者として里山に入り込み続けていれば、いつかきっと里山の本当の姿をこの手でぎゅっとつかめるようになるはずという手ごたえをいま感じてはじめているのです。

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