【現代文】先に立つ “航海”も無く 旅に立つ
高校時代の鬼教師による読書感想文の宿題。その9作目の粗筋は、私の記述によると次のようなものだった。
「人口千四百の小島・歌島に、山川運送の船主・宮田照吉の娘・初江が老崎から戻る。母と弟・宏と三人暮らしの漁師・久保新治は、美しく心やさしい初江と恋に落ちる。しかし、観的哨で待ち合わせた嵐の日、二人が体を乾かすことから互いに裸になったのがきっかけで、村中にあらぬ噂が立った。初江の聟候補の青年会支部長・川本安夫は、この噂に怒り、深夜に村の水汲み当番で泉に来た初江を犯そうとして失敗する。噂が頑固な照吉の耳に入ると、二人の恋は妨害される。だが、彼はふさわしい聟を選ぶため、自分の所有する歌島丸の甲板見習として、安夫と新治を航海に出した。結果、沖縄の荒海での新治の手柄に、照吉もその気力を買って婚約を許す。その頃は嵐の日の疑いもすっかり晴れていた。」・・・「読みはじめ」は「93年2月18日」、「読みおわり」は「92年2月22日」、「延べ時間」は「7時間」――さてはて、三島由紀夫の『潮騒』を高校生の私はどのように“捕球”したのだろう。粗筋に引き続き、私の感想文は次のようなものだった。
「多くの小説や映画で美しく恋愛が取り上げられている反面、異性に、とりわけ男が女に心をとらわれるのは軟弱だとする考え方もある。もちろん二元論的思考法が正しいかどうかは別問題であるが、もしパスカル流に物事を『まじめ』と『暇つぶし』とに分けるとしたら、恋愛はどちらに属するのだろうか。
男女が互いに恋心を抱き、また交接するのは、人生において大切なことだ。新治が初江を想う気持ちは真剣だった。また安夫も真剣であったに違いない。けれど、両者の愛し方はそれぞれ異なっていた気がする。彼女が別嬪だったことが恋愛の動機であるなら、それは軽率だと思う。安夫の言動にはその軽率さが感じられた。遣いに出されて、こっそり女を買ったときの安夫の気持ちは、初江を嫁にしたい気持ちと大差ないように思われるのである。事実、安夫は初江を強姦しようとしている。人間は、一時的な慰めと清らかな恋愛を混同してしまう危険から逃れられるのか。恋愛は素晴らしいと称賛する一方で、色事となると汚れたイメージが付きまとう。誰もが生理的欲求を持ちながら、みだりに性欲を満たそうとすれば、真実の愛からは遠ざかる。女を知ることで優越感にひたるような安夫が、まじめに初江を愛するのは無理であり偽善であり、私には信じられない。
観的哨で新治と初江が互いに全裸になったときのことを思い出す。あのとき新治が欲求を素直に表す行動に走らなかったのは、本当に彼女の『心』を愛していたからだと思う。彼女の『体』を愛していた安夫は、この時点で負けていたのだ。」
・・・性欲が爆発の真っ只中にある16歳の私が「愛情を肉体と結び付けるのが常識」「セックスを愛情の証と評するのが常識」とする恋愛観に、何と「そうとも限らない」といった反論を試みているわけだが、この辺りの青二才ぶりにこそ感想文の読み応えがあるというものだ。具体的に突き詰めると、例えば「物凄く息ピッタリで相思相愛となった相手にいよいよ肉体的な距離を縮めようとしたとき、『性交をしないことが交際の条件だ』と断られた。それでも、あなたは彼女を愛し続けることが出来るか?」「自分好みの容姿を持っていたので一目惚れした相手が、その美貌やボディラインを事故や病で失った。それでも、あなたは彼女を愛し続けることが出来るか?」といった問いに、どのような価値観を以て向き合うのかというテーマだ。なお、当然だが、やりたい事を散々やった後になってセックスレスへと移行したカップルの話なんかでは無い。この問いは、キスも儘ならぬ段階で判断を迫られるものである。
高校生の私の回答は「イエス」則ち「愛し続けることが出来る」だった。予め性的な興奮や快感を得られないと分かり切っている相手に対しても注ぐことが出来るのが「真実の愛」だと結論づけたのである。ところが、とっくに童貞から卒業し、性欲が下り坂へと転じたはずの中年になってから、この持論への自信が揺らいでくるのだから不思議なものだ。春奈みたいな女性と出会ってしまった影響もあるのかもしれないが、要するに「自分のカラダを気持ち良くしてくれる、或いは気持ち良くしてくれそうな相手だから、ココロでも繋がりたいと願うようになる」――そう捉えるのが畢竟自然な恋愛観だろう、と約30年の間隔を経てからの前言撤回に及ぶのである。男女間――同性愛を含めて恋愛対象となる相手との間――における愛というのは、親子愛や兄弟愛や隣人愛とは異なり、肉体と切り離した場所に「真実の愛」なるものが存在するのではなく、やっぱり究極的には肉体とセットにならないと発芽しにくいのではないかという、謂わば「周囲が常識とする事象」にようやく納得したわけだ。これは実際の生殖機能とは無縁のことで、高齢者同士が晩年の伴侶を得るような場合であっても、蒲団を同じくしてフェロモンを擦り合わせるくらいのスキンシップには至るだろう。
となると、「彼女が別嬪だったことが恋愛の動機であるなら、それは軽率だと思う」との分析は妥当性に欠く。「遣いに出されて、こっそり女を買ったときの安夫の気持ちは、初江を嫁にしたい気持ちと大差ない」との分析は的確だが、「誰もが生理的欲求を持ちながら、みだりに性欲を満たそうとすれば、真実の愛からは遠ざかる」との分析には疑問符が残る。
私の恋愛観の変遷はこの程度に留め、読書記録欄の日付に再び着眼すれば、これが高校1年の最後の課題図書だったと思われる。4月の有島武郎『一房の葡萄』に始まった鬼の指導も9作目に達すると、若干ながらも着実に、私の「読書感想文らしさ」が鍛え上げられている印象は受ける。ん?おかしい。たった年間9作で終わりのはずが無い。あくまで三十代半ばの時分、タンスの奥からは9作分の感想文しか見つからなかったというだけのことで、この引っ越しの19年前に遡れば、他にも谷崎潤一郎の『卍』、川端康成の『伊豆の踊り子』、有吉佐和子の『華岡青洲の妻』等々の名作が、私の恋愛観に波を打ち付けていたことは間違いない。だが、「事実は小説よりも奇なり」と云われるだけのことはあってか、四十代半ばを過ぎた今となっても、我が胸に潮騒の如く執拗に響き止まないのは「事実」のほうだ。
「ねえ、たまには、ウチのカツサンドじゃなくってさあ、味を変えてみないの?1日の締め括りの食事よ。そうそう、駅の反対側に出来たお店、ローストビーフが美味しいのよ。ブーブー豚ばかり食べてると、モーモー牛の味を忘れちゃうわよォ。あっ、でもね、サラダとスープがセットで付いてくるんだけど、何故かスープは豚骨ベースだったわ、ブヒブヒ。」と、人差し指を鼻先に当ててブタのポーズをとる小春ちゃん。「ママの目の前で他の店の宣伝をする従業員がいるかよ。それに、あの店、こんなに遅い時間までやってないでしょ?」と私。
入社して数年のうちは激務甚だしく、終電を逃すほどの残業も月に2~3回あった。朝から営業で飛び回り、出張先から帰社するのが17時30分。世間のサラリーマンが帰宅の準備を始める夕暮れになってから、こちらは「市況報告書」を纏めたり、「見積り書」とか「販促企画書」とか得意先から出された宿題を片付けたりと、諸々の内勤事務を始めるのだから、深夜に及ぶのは必然のこと。そうなると、会社近くの先輩の部屋に転がり込む前、1日の疲れを癒す酒と共に空腹を満たすのが、決まってこのスナック。居心地が良く、軽食も出してくれて、5,000円ポッキリ。調子に乗ってハシゴ酒に突入するよりも安上がりだし、カラオケも歌いたい放題。但し、この店に通った理由はもう1つあって、それが看板娘の小春ちゃんの存在。僅かな睡眠と食事以外、全ての時間を労働に奪われていたあの頃の未熟な私にとって、やや年上の彼女は心の支えだった。私は次第に一人でも足を運ぶようになっていった。起きている間で唯一自由な「食事の時間」が「彼女に会える憩いの時」でもあったのだから。
「それもそうね。時間帯が遅いわ。それにね、ダイニングバーみたいな所だから、オトコ一人客が仕事帰りに通うタイプの店ではないかも、フフフ。」「おやおや失礼ですねえ。まあ、僕は毎日でもこの店で飲みながら小春ちゃんと話していたいよ。」「毎度お上手ありがとうございます。」酒の導く解放感も相俟って、小春ちゃんを口説くのは常連客にとっては挨拶みたいなものだったけれど、若かった私はちょっと本気になりかけていた。
「ごめんね~、今日はカツサンド、切らしちゃった~!」と、カウンターの奥で洗い物をしながら、ママが水を流す音に負けないよう声を張れば、「ノープロブレム!ナポリタン、プリーズ!」と私も声を張って返す。「お詫びに、目玉焼き、乗っけてあげる」とママ。「うわぁ~、嬉しいなあ~」――ママの目玉焼きは必ず玉子2つ分。これが1つだと「ハイ、右目焼き、おまちどおさま」「ハイ、左目焼き、おまちどおさま」と謂う。右か左かはその日のママの調子の良いほうの目だそうだ。この二人のやりとりの間に割り込んで「ダイニングバーじゃ、こういうサービスは無いものね!」と小春ちゃん。「小春ちゃんは誰と一緒に行ったんだよ、そのローストビーフの店。」と私が問えば、「アラぁ~、デートの相手が気になるみたいねぇ。」とニンマリしながら、急に声を潜める彼女。濡れ羽色のロングヘアが私の顔に近づき、熟した果実の香りがふわりと若僧を刺激する。
「ほらぁ、ママに拾われるまで、私、風俗で働いてたでしょ。その時の友達が久しぶりに会おうって言うから、――ああ、友達って、店で未だに超売れっ子の“ひめたん”よ、これも前に話したでしょ――わざわざ遠くへ遊びに行くより、いっぱい昔話をしたかったし、ちょうどあの店がオープンしたばっかで話題になってたから、お腹いっぱい食べようよって事になったの。で、ここから先の話よ。私が予約の電話を入れたんだけどね、お店の人が『当店はお酒を提供しますので、未成年者の方のご来店はお断りしております。』みたいな確認を急に言い出すわけ。私の声って、あんまりにもキュートなもんだから、女子高生と勘違いされちゃったのね。ヤダ~、自分で言うの恥ずかしい。それでもさあ、折角のチャンスボールを見逃し三振ってわけにもいかないでしょ。何か打ち返さなきゃって思って、『やっぱ私の声、そんなに若いですか?すみません、変声期なもので』ってセリフが咄嗟に出ちゃったの。で、店の人が唖然としたのを待ってから『いやいや、冗談ですよ。31歳です。もう一人も高校生みたいに“一生食べ盛り”みたいなオンナですけど、ハタチは過ぎてます。』って続けちゃったの。まったく接客業の癖ってコワイわね、それとも酔ってたのかなあ。したらさあ、店の人、『承りました。失礼ですが年齢を判断しがたい場合は身分証明書のご提示を求めますが、よろしいですね?』みたいに、まだ念を押すのよ。風俗でもこんなにしつこくないわ。そんなもんだから、もう、私、『分かりました。当日は戸籍謄本を持参します』って、また余計なこと口走っちゃった。えっ?店の人?笑いをガマンしてる様子が電話から漏れていたわよ。ホームランじゃないけど、ツーベースは決めたって感じね。でも、“ひめたん”って、歳の割には童顔だから、一応、ホントに一応よ、『私は大丈夫だろうけど、アンタは入口で呼び止められるかもしれないから、身分証明書を忘れずにね』って、伝えといたの。『そこって、ホストクラブ?』って返されたわ。
えっ?当日?非常に残念ながら、二人ともスルーパスよ。制服でも着てきゃ良かったかしら。“ひめたん”って逞しいのよ。結局、『証明するほどの身分なんて1つもないわよ。オトコの操縦免許証はあるけど。』って、なんにも持参して来なかった図太さも相変わらずだったけど、“一生食べ盛り”ってとこも健在だった。サラダも運ばれないうちから『ねえ、ホストがローストビーフ切ってくれるのって、何時ごろ?』って、まつ毛エクステ、パチパチさせながら、ジントニックを一気飲みしてた。まあ、元気そうで安心したわ。」・・・いつも感心させられるのだが、小春ちゃんの小噺は、下手な寄席の前座よりもカネを取れる腕前だ。
氷河期の就職戦争を生き残り、貧乏から抜け出すチャンスを逃せない時期、信じられないかもしれないが、当時の私は「デートに誘われても、そのデートに費やせる時間がたったの数時間もない生活」だったのである。私の転勤が決まったとき、小春ちゃんから「最後に1回だけ、お客さんとしてじゃなくって、店以外の場所で会わない?」と言われたのに、薄情にも私はこれを断腸の思いで断り、泣きながら新幹線に乗り、京都へと旅立った。忙殺は明らかに恋愛、ひいては結婚の阻害要因だ。そのまま私は見事に適齢期を逃し、辿り着いた終着駅は独身中年。これはこれで悪くない生活だけど、もし人生をやり直せるとしたら、せめてあの日の彼女と、生涯忘れられぬ味わいとなったであろうローストビーフを堪能したかった――深夜の泉で初江の肉体を貪ろうとした青年会支部長・川本安夫が羨ましく見えてしまう程、私には強引さというものがまるで無い。深夜のスナックで小春ちゃんの肉体どころか、牛の肉にも喰らい付こうとせず、甲板見習として“航海”をしてみようともしなかった“後悔”――あの日ばかりは悔やむに悔やみ切れない。桑寿も近づき、進学や就職や両親の介護や、職務や趣味や、実にあれこれ振り返っても、後悔の極めて少ない人生だが、――というよりも、勉強も仕事もそれなりに厳しく辛かったので、若い頃に時を巻き戻したいなんて願望をとても抱けない私だが、――あの日に限っては悔やむに悔やみ切れない。今さら休暇と財布に余裕があっても、人生ここに至るまでの代償が痛かった。そう感じてしまうのは、元来モテないこの私が「女性からの申し出」というチャンスボールに見逃し三振という失態を演じたあの日を忘れられないから――ただ、それに尽きる。心底、悔やむに悔やみ切れない。今、何処で、何をしているのかな?なんてノスタルジーは微塵も無い――ただただ、悔やむに悔やみ切れない。
付き合いに発展したかもとか、結婚できていたかもとか、そういう未練では無い。なぜ、なにゆえに、たった一夜でも貴女と肉に酔い痴れようとする心構えとゆとりが無かったのだろう。旅立つ先には立たないのが後悔というものですが、旅先の果てから自らを苦しめるコトバを贈ります。「貴女が好きでした。」叶わないとは知りつつも、否、叶わない望みだと承知しているからこそ、小春ちゃん、貴女の噺に聞き惚れながら美味しいお肉を頬張りたかった。それだけ・・・つづく