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日本人研究②ひ弱な精神、個の弱さ

前回は、

集団・他者依存意識、モノマネ好き、パターン化志向など、様々な行動傾向をもたらす日本人の心理的傾向である「自我不安」について述べたが、今回は「個の弱さ」に関して。




見る自我、見られる自我

日本人は「主体性」に欠けるといわれ、自我が確立していないとされる。また「自分の殻に閉じこもっている」だの「草食系」だの散々な言われようで、かつての西欧人から「劣った自我」だとも指摘されている。

それは漠然と自己主張しないとか、自分の意見をしっかり述べるのができない、苦手だとか、自分で積極的に、能動的に行動しないことであると考えられている。

私も日本人の男性とデートをよくするが、日本人のデータや恋愛下手はここらへんが足を引っ張ると思っている。

ただ、ここでいわれる自我は、意識の一つの側面に過ぎない。これを「主体的な自我」と呼ぶとするが、自我の一面である。

これに対して自我のもう一つの側面は、主体ではなく、客体、つまり、対象としての自我、能動的ではなく、受動的な自我である。

これを「客体的な自我」と呼んでおく。


主体的自我が、する自分、見る自分であるのに対して、客体的自我は、される自分、見られる自分である。その意味で受け身な自我なのだ。

また客体的自我は二つの側面を持つ。一つは主体的自我としての自分から見られる客体的自我である。それを自分の内面を自分自身が観察して、内省するもので、これを「内面的自我」と呼ぶことにする。

たとえば、自己反省、自己批判のような自己分析だけではなく、「自分が嫌になる」「私はよくできた」など、自己嫌悪や自己賞賛もふつう誰でも経験する。そのようにして作られたセルフイメージが、自己像である。


この内面的自我に対して、客体的自我には、また他者から見られた自分、他者が抱いていると思われるこの自分についてのイメージの面もある。この場合は、外から見られた自分という意味で、「外面的自我」と呼ぶことにしておく。内面的自我と異なり、外面的自我は、他人が自分をこういう人だと言っている、あるいはそう考えているに過ぎないだろうという「推測」による、他人から見られた自己像である。

そのほか、内面的自我には、自己肯定的な自己像としての肯定的自我の側面もある。「自分はこれでいい」と思う内面的自我な姿である。

これに対して「自分はダメだ」と思う否定的な自己像としての否定的自我の側面もある。それは劣等感、恥、罪などの意識をともなう。そして、自己嫌悪に落ち込む傾向をもたらす。


このように我々人間は、このような意識、これらがバランスを保っているわけだが、複雑な自我を作っている。



他人の目

たとえば、他人の目がいつも気になる人にとっては、客体自我の外面的自我が強く意識される。「人は自分のことをどう思うだろうか」「自分のやり方についてどう評価するか」「自分に好意を持っているだろうか」など、さまざまな外面的自我が、つねに自分の生活で重要な役割を占める。そこから、「世間体」を気にする世間体意識、見てくれを気にする体面意識、自意識過剰など、「他者中心」、「他者依存」、「他者本位」な傾向が出てくる。

そういう「他人の目」に支配される人は、なかなか自分で自分をちゃんとしっかり評価した内面的自我を確立することはできない。

他人が自分を批判すれば自分が否定されたと感じて、そういう人間だと思い込み、他人が目の前にいなくても、他人から見た自分はそんな人間だと考える。そこでは「他人からこう見えるだろう」「他人はこう言っている」と思う外面的自我に左右されている。その場合、外面的自我の影響で、否定的自己像が強められることになるだろう。


このように外面的自我の影響で、「ひ弱な内面的自我」、否定的自我が強められ、「不安定な主体的自我」と結びついてくる。

自信がなく、不安で、自尊心が欠けている自我は、同時に、なにか行為をするときの主体性を足を引っ張る。

人間は誰でも、自分の思考、経験、判断の積み重ねで、自分の力を信じ、自分の存在を尊重するところから、行為者としての決断も生まれる。それが欠けている不安定な、否定的な自我が強ければ主体的な自我は否定的自我に足を引っ張られて、行為者として右往左往する。

「自分はこうしたい、しかし、人はどう思うか、どういう結果になるか」。




日本人の自我構造では、とにかく、この「外面的自我」の意識が強く、他人から見られている自分を意識しすぎる自意識過剰が、自我全体に影響を与えている。外面的自我の意識が強いと、それが内面的自我の否定的自我を作り出して、自我を圧倒するのだ。


若い日本人が既読にびびる理由でもあるが、相手の反応にまともに、ダイレクトに、敏感に反応してしまう。

たとえば、他人から劣等視されているという外面的自我の意識が強くなると、それが内面的自我に影響して、自己評価でも「私はダメなやつ」という否定的自我を持つようになる。劣等感は、しばしばこのような外面的自我の内面化によって作られる。

また、子供が親や教員から、できるの悪いことしていつも叱ると、自分自身を劣等生とする内面的自我が次第に作られるようになり、その劣等感から不安定な自我が生まれてしまう。そこでは前記のように、「自己決定に自信がなく」、不安定感、自我不安が見られる。




自我の弱さと不安定さ

このように主体的自我が、内面・外面的の両方の自我から「足を引っ張られて」、主体性を動揺させ、不安を感じるとき、そこに自我全体の不安定さ、自我の弱さが生まれる。

これらは、大多数の日本人が共通にもつ性格特性であり、日本的自我構造の基本的な特徴と言えよう。

不安定で弱い自我は、性格特性として客体的な自我と主体的自我の両面にあらわれる。一つは、外面的自我への傾向が強くなること、もう一つは、主体性の弱さである。

この二つは日本人の性格特性として、不安定で弱い自我にまで複合される。

外面的自我が強くなると、「他者中心主義」の傾向を生む。日本人は控えめだとよく言われるが、それは、対人関係において、気がね、遠慮の傾向にあらわれる。また日本人特有といわれる「視線恐怖」あるいはそれに類する「対人恐怖」は、このような傾向が極端になった場合だ。


主体的自我の弱さは、弱気、内気、心配、孤立感、引っ込み思案、迷い、ためらいなどの消極的な行動傾向にあらわれる。

このような「ひ弱な自我」は、必ずしもつねに意識されているわけではないが、日本人の自我構造の中に組み込まれていて、その時々の状況に応じて、日常行動の「方向」を色付ける場合が多い。

ひ弱な自我は、「意志の弱さ」を意味する。それは行動するにあたって、何を目的とするかを選ぶ「選択力」、選択の結果ある目標を決める「決定力」、決定したことを実際の行動に移す「実行力」、実行する行動を持続する「持続力」、さらにダメな場合、他の目標に切り替える「転換力」、実行を中止する「中止力」が含まれる。

コロナ禍を見ていてもこれらが足を引っ張っているとしばしば感じる。

まず問題となるのが「決定力」だ。重大な意思決定となれば、決断力が必要となるが、それが欠けていることから、日本人の迷いやためらいの傾向が出てくる。だから日本人は優柔不断だとよくいわれるのだろう。これらは、なにかを決定するための判断力に乏しいのではなく、

「行動の結果に対する予期不安」なのだ。

そこには、ミスはないか、そもそも失敗しないか、スムーズにいくだろうか、先行き不安がある。それは「取り越し苦労」であり、「日本的な先取り主義」の一つである。


このような決定不安が日本人の主体的自我の意欲面に見られる弱さであり、それは結局、「自己責任」においてする「自己決定の回避」である。




「集団性」への依存、集団依存主義

ひ弱な自我かるおきる、不安は、何によってよって和らげられるだろうか?

第一に、「集団」だ。

日本人は個人だと控えめで大人しく遠慮がちだが、集団(匿名)になると、人が変わったように積極的になる。

またいつもグループで群れるなど。

これはしばしば外国人も指摘するところだ。

それは個人決定よりも、集団決定のほうが、安心感をもたらすからである。

コロナ禍での政府と専門家会議の関係性も同様だ。

その場合自分が決めたことではなく、みんなで決めるので、そこに「自己決定にとまなう自己責任」の負担が、集団決定による集団責任に吸収されて、気持ちが楽になるからだ。

赤信号、みんなで渡れば怖くない

日本人にとって、集団は、超越的な存在、まさに神であり、その心理的な影響力をもって、人をやっと行動に押しやることができる。


そして、日本人は集団への所属意識が強いという意味で、集団依存主義の傾向になるけれど、それと並行して、「運命への従属と依存」を感じる運命依存主義の傾向も持ち合わせている。

ここに運命共同体意識が生まれるのである。

それはかつては「藩」、「会社」などの忠誠心となってあらわれる場合もある。

このような運命と結びついた集団、つまり、運命共同体の、個人を超越した力によって主体的自我が強くなることは、運命をシェアする集団への依存である。

そこには自我の「集団への心理的な一体感」による集団的自我を作るプロセスが見られる。集団的自我は、ひ弱な個人的自我を支え、自我の弱さ、不安定さを打ち消す役割を果たす。

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