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山の地図


地図は頭に入っているから、足で思い出しながら登っている。足は地図の道をなぞりながら、頭は地図で思い描いた景色を浮かべながら。そして眼は現実の景色を追う。どれか一つでも欠ければ、僕は遭難する。いつも登るのは一人だ。学生時代は仲間と登ったけれど、社会人になって忙しくなってから、誰かと早めに予定を合わせて登るのは難しくなった。サークルに入ったばかりの頃、地図を読むことに夢中になった。地図の北と実際の北を合わせるということや先読みの感覚を身につけることに。
 
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山?
    
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直火で焼くトーストはおいしい。ボンベの上に折り畳み式のトースターを置いてフツウのパンを焼く。家で焼くのとは違って、焦げ目がまんべんなくなくて。それがとてもうまい。真ん中でパキンと折って、絞り出すタイプのジャムとバターを絞って、焼いたソーセージも皿にのせる。

でも結局、山で食べれば何でも美味しいんだ。
   
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「明日の朝死ぬってわかったら何を食べたい?」
「ありきたりな質問だなぁ」
「いいから」
「うーん。じゃんがらラーメン全部のせ」
「・・・女の答えとは思えないな」
「お兄ちゃんは?」
「お母さんのおにぎりかな」
「うわぁー、いい答え。優等生か!」
「いや、こないだラジオ聴いてたらさ、この質問にヨーグルトって答えてる人いてさ」
「ブルガリアかっ!だね」
「何かなーって考えてて。お母さんのおにぎりもいいし。この本もおいしそうだなと思ったり」

『山小屋ごはん』
 カレーライスにボルシチ、おでんもあった。表紙には、お皿にのった目玉焼きとトースト、ソーセージに付け合わせのキャベツ、ベビーチーズ。
「おー美味しそ〜」
そんな会話をしたのはいつだったか?

兄は本ばかり読んでいて、いろんなことをよく知っていた。山に興味を持ったかと思えば、今度は建築。素敵な洋館の写真で満足はしないで、いきなり構造計算に凝ったりする。
アマゾンがなかったころは、ご所望の本を買いに行くのが大変だった。八重洲のブックセンターに行ってみたり、ジュンク堂に行ってみたり。
 
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オリーブは橄欖(かんらん)と書くのか。橄欖という字は檳榔(びんろう)に似ている。なんて。きへんなだけか。子供のころ、一度だけ台湾に行ったっけ。お父さんの赴任先の台北。僕はどうしても、檳榔という嗜好品を食べたくて、お父さんの部下の人を困らせた。檳榔は赤い実の嗜好品で、現地の人はくちゃくちゃと噛んで、ペッと道に捨てる。その行儀の悪さや覚醒状態をもたらす効果から、子どもに食べさせられないことを今ではわかるけど、あの時は、大人のひどい意地悪な気がして台湾を嫌いになった。そう言えば、赤い檳榔と緑のオリーブはよく似た形だ。
 
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お兄ちゃんが台湾に行ったのは、まだ私が生まれる前。そんなことがあったのか。それは本当にあったことなのかもな。
 
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北海道の山に登ることになった。熊除けのベルを買わなければ。だけど、熊が住んでるところにわざわざ入って行って、除けろよというのも変な話だ。『羆嵐』は怖かったな。あんなのが来たらひとたまりもないけど、ベルで逃げてくれるくらいの熊なら「逃げてくださいよ」と思いながら登ろう。
 
・羆が漁った荷物を取り返してはいけない
・遭遇したらすぐに下山しなければいけない
・背を向けて逃げてはいけない
・羆は天候に関係なく行動する
 
熊への対処も山と同じだ。危険を予想する。危険は予想した時点で危険ではなくなる。道迷いの危険個所を頭に叩き込んで、先読みする。一番大切なのは、自分の現在位置を知ることだ。もしも予想して、対処して避けることが出来なかったら。それはもうタイミングの問題。甘んじて受け入れよう。熊さんのご飯になろう。
地図を読みこみながら、いつも頂上ばかりを考えていた気がする。僕はずっと頂上が山なのだと思っていたのかもしれない。でももちろん、尾根も沢も山だ。
 
    *
 
北海道どころか。

兄は、家の外に出られることも稀だった。身体表現性障害という病気にかかって、ほとんどの時間を自分の部屋のベッドで過ごした。長い間家から出られず、風邪をひいてコロッといってしまった人の日記を誰かが読めば、可哀想だと思うだろうか。可哀想だと誰かが思うかもしれないから、これは誰にも見せない。



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