小説:夢見るようなあたたかな日々 ④
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十五話
「タツジュ〜ン。ペットボトルを潰して捨てるのは
なんで?」
「少しでも多くペットボトルを捨てたいじゃん」
暑くなると水を飲んだ後のペットボトルが増えて嵩張る。
メンドクセーと思いながら、ラベルを剥がし、
キャップを外してビニール袋に放り込みながら、
足で潰してギャップと対になった輪を取る。
「うるさいよねぇ、
静かに片付ける方法はないのかな?」
「あるっちゃあるよ。
ペットボトルの空気を抜いたり、熱湯かける」
「タツジュン、ペットボトルに熱湯かけたら
ペットボトル全体が小さくなるの?」
「いや、
ミネラルウォーターのキャップはそのままよ」
「なんで?」
「なんでって、ミネラルウォーターのペットボトルは無菌充填用ペットボトルって耐熱性の素材じゃないんだよ。
でも蓋はお茶のペットボトルに使う素材と同じだからね、耐熱性で熱湯じゃ小さくならんよ」
これもキンクマの学習のためだ、
俺は熱湯を沸かす。
百聞は一見にしかずという。
沸騰した鍋にペットボトルを沈めて菜箸で抑えると
ペットボトル本体は縮んでいき、
蓋とリングは本体から離れた。
「こっちが楽だけど時間がかかるね。
へぇ、輪っかは溶けないんだ」
「あっ!」
キンクマと俺は同時に声が出た。
もしかすると、これが答えだ。
「開封してないペットボトル、ある?」
「あるある、ちょい待って」
タツジュンは冷蔵庫からお水を取り出すと、ペットボトルを逆さしてカッターで傷をつける。
そうしてボールへお水を移して、鍋にペットボトルを投入する。
ゆっくりとペットボトル本体は縮む、そして開封されてない蓋から分離した。
未開封ミネラルウォーターのペットボトルの蓋を
お茶のペットボトルの蓋に付け替えた?
「これじゃね?トリック」
「だよね、だよね?もしかして僕たち天才!」
なるほどなぁ、こうやって毒入りペットボトルのお茶は完成したんだ。
キンクマと俺はハイタッチをし、
「キンクマくん、この感動を誰に伝える?」
「それは……優しい香川さんかな」
キンクマの言うことは分かりやすい。
警察に連絡すると俺たちが疑われる。
しかし香川さんを呼んで検証したら、香川さんの気分は晴れる。
キンクマにあんな丁寧で優しい目をしてくれた人、
少しでも心の負担がなくなればいいな。
十六話
玲奈から「心配しないで」
会社には精神科でもらった診断書を出し、既に長期休暇へ入ったとLINEがあった。
次女には何があっても都内に進学した長女へ連絡するなと理解を求め、学業に専念させている。
茶封筒は警察に出していいが、消印や妄想日記で俺が疑われるのは損だ。遺書がないんだ、誤認逮捕をされてみろ。目も当てられない。
茶封筒の消印は人形町からで、誰が手帳をコピーしてうちに送りつけたのか、あれこれ分からないことだらけで俺は探偵業者じゃないのだから早く解決して以前のような暮らしがしたい。
俺は風呂に入ったものの、湯船から出る気力すらなくなっていた。
事件があってから目まぐるしい日々は仕事と並行して、ゆっくり休む時間が取れない。
玲奈がひとりで過ごしたくなる気持ちがよく分かる。
犯人がいるとすれば、他人の生活を引っ掻き回し、不安のどん底に陥れ、それをどこかで見ているのだろうからいい気なもんだ。
やることなすこと嫌になる。
それでも風呂から上がり、適当に棚からタオルや下着を取り出すが、見ただけで清潔感を覚える整理整頓された棚の中。
混乱にいても丁寧な暮らしを維持しようとする玲奈の思いやりは心へ大きな穴になり、寂しさを呼ぶ。
家の随所に玲奈のきめ細かい優しさが施され、責任感があり、家族思いが伝わってくる。
濡れたままの髪でベッドに横になる。
玲奈は今頃、ちゃんと眠れているだろうか。
あんな日記のコピーを送って来るヤツは、
うちの家族へ嫉妬なのかもしれないし、羨望なのかもしれない。
子どもたちを進学校へ入学させるほどの手腕を持つ良妻賢母、家庭を任せても安心して会社へ行ける、どこへ出しても恥ずかしくない妻。
「よくあるやっかみだ。無視しよう」
俺は自分に言い聞かせても胸の奥には響かない、
玲奈を不幸にした文章を読んでしまうと全身の力が抜けてしまった。
「玲奈を守ってやれなかった」
自死に巻き込まれた上に、嫌がらせで傷ついた玲奈の気持ちを考えると、今は玲奈をそっとしてやるのが適切に思えた。
十七話
「香川さんの携帯ですか?辰巳と申します」
タツジュンは慎重に言葉を選んでいる様子で、でも浮かない顔をしている。
タツジュンはスマホの通話が切れたのを確認して
「キンクマ、なんかヤバいことになってる」
タツジュンは順を追って僕に話してくれる。
香川家へ嫌がらせの封書が送られて、香川さんの奥さんは傷ついているそうだ。
「タツジュン、どういうこと?」
「俺にも分からんが、明日、香川さんがうちへ寄ってくれるって」
タツジュンと僕はアーモンドを齧っている。
物騒な話をしながら、アーモンドを食べる手は止まらない。やっぱり僕たちは他人事なんだ。
自分で責任が取れないことは全部、他人事と言っていいのかもしれない。
でも香川さんの人柄を見ていると、
ここは僕たちにも何か縁があってだから、
僕たちが加賀さんの自殺トリックを証明すれば、
香川さんや奥さんの気持ちは少しだけ軽くなる。
自己犠牲とまでは言わないが、利他を熟慮しないとこの先もずっと周囲へ他人事として無関心になり、僕たちは孤立する。
小さな事でも配慮しておけば、利他はいつか自分へ戻るもの。社会で回していくもの。
香川さんみたいに弱っている人へ寄り添いたいという感情を放っておくといずれ優しさが何が分からなくなり、幸せを得にくい感性になりそうな気がした。
十八話
暑くて湿度が肌に絡みつく感覚は、早々に忘れたい出来事が頭から離れないのに似ている。
三上さんからうちに届いた茶封筒へ入っていた鍵と指示書を頼りに、品川駅のコインロッカーを開け、中からトートバッグを出す。
中身はまゆりの18年分の手帳で、
三上さんから始末するよう指示された。
まゆりが三上さんとね、知らなかった。
昔、私と三上さんが歩いているところへ偶然会ったのがまゆりで、三上さんを香川と紹介した覚えがない。
いつの間に2人は連絡先を交換したんだか。
三上さんはその後結婚したので、まゆりとの関係を想像したことすらなかった。
私はビジネスホテルに宿泊し、
手帳を読んでは破り、
たまたま入ったコンビニなどへ小分けにして捨てていた。
こうでもしないとまゆりの自死は、
三上さんへ疑いがかかると指示書に記してあった。
入籍前、私は三上さんと遊んでいた。
本命は香川で、香川は父親と兄が大学教授、母親が文筆家。本人は慶明大学政経学部を卒業後、海外留学を経て入社した。
香川に三上さんとのことは知られたくない。
穏やかで誰にでもフレンドリーな性格は、
社内でも評判の良い先輩だった。
不器用でよく上司に叱られていた私を、小動物みたいだと可愛がってくれた。
私は上昇指向が強い女かもしれない。
しかし小さな幸せでいい、愛されていたい。
そして家族を大切にしていきたい。
まゆりは自分で命を絶った。
推測だけど、
まゆりは自作自演のストーカー被害を心配してくれない三上さんへ嫉妬して欲しかったのだと思う。
だから次に、気分が悪くなった自分を、三上さんがみんなの前で介抱してくれるドラマチックな展開を演じてみたかったのかもしれない。
ただ、飲んだ毒には致死量というのがあって……。
かまってちゃんがやることへ、三上さんが巻き込まれるのは可哀想だと思う。
でも、三上さんはまゆりが死ぬのを分かっていたから、今、手帳は私の手元にある。
まゆりの手帳のコピーを見た時、
最初は香川の名前があって驚いた。
しかし、日付を見てまゆりと三上さんの情事と思い直した。
警察にまゆりの手帳を持参しようか、私は迷った。
でも、婚前。
私と三上さんが遊んでいたことが香川に知られると、香川の実家や子どもたちにも知られてしまう。
手帳を処分しても、この先、三上さんから狙われる理由はないし、警察から香川が疑われることがなく私の家庭は安泰なままだ。
次女にコピーだけを見られてしまい
「ママとパパを離婚させようとする人がいるの?」
手帳を処分する件があり、次女には
「こんなことが続いてママは疲れて1人になりたい。
パパには心配しないでねって伝えて」
適当な理由をつけて家を出てきた。
十九話
「なに考えてるの?」
白く細胞がふっくらした腕がオレに伸びてきて、オレは腕の主を抱き寄せる。
「なにも」「そう」
警察から、加賀まゆりの件は自殺と処理した連絡をもらった。
完全犯罪は長期スパンで完成させていくはず。
二度としない物事から教訓を得た。
計画は1年前から始まっていた。
動機か。
なんとなく思いついたトリックを実験したかった。
俺が持つガラパゴス携帯は18年前から、
まゆり名義で契約したものを渡されていた。
通話のみで、オレに足はつかない。
「もしかして完全犯罪ができるかも?」
思いついたらやってみたくて仕方ない、
1月の実験は失敗した。
香川と昼飯を食っているとアジサイ見物に誘われ、
「うちの奥さんの親友も誘う予定」だと聞き、
これが試せる二度目のチャンスと誘いに乗った。
ジキタリスは去年、出張先の名古屋で見つけた花を茎から千切り、自宅で乾燥させて粉末にし、
ビニール袋へ入れて保管していた。
ミキサーはまゆりへやり、ビニール袋は事件後、会社で処分した。
まゆりの手帳は1月に合鍵で入ったアパートから盗み出し、インスタントコーヒーに毒を仕込み、
俺の指紋を拭き取るように家中を掃除して、合鍵は川へ投げ捨てた。
そこから大島に行ってない。
まゆりの“ストーカー”の手紙は、アジサイ見物を了解した後に大阪のビジネスホテルで作成したもの。
マッチングアプリで色んな女と会っては、
まゆり1人との逢瀬を特定できないようにし、
お茶は製造番号が誤魔化せる新宿駅で購入。
まゆりは生理前、情緒不安定になる。
俺が三上としてアジサイ見物に行けば、まゆりはオレが香川でないことを知り、ショックを受けて自傷に走るだろうというのを計算しておいた。
まあ、誰が死んでもよかった。
あとは頃合いを見て、まゆりのバッグから今年の手帳を抜き取り、微量の粉末が入った小分け袋とガラケーをバッグの底へ入れた。
残業時にまゆりの手帳を一部コピーし、茶封筒へコピーとメモそして現金を入れ、帰りに投函した。
「オレに疑いがかかる、助けてくれ」と。
玲奈に手帳の処分を頼んだが、
玲奈もオレも互いにスマホの番号を知らない。
名家の恥になる“香川の不倫”の証拠隠滅は、
主婦である玲奈に30万円の報酬を茶封筒に入れ、渡しておけばやってくれると思った。
こんなに上手く行くとは。
18年もの間があっても、まゆりに対して寸分の思い入れがない。
「子どもがほしい」これはウザいと感じた。
そもそもオレは子どもができない体質で、
院生時代のおたふく風邪が原因らしい。
そういう意味では昔、玲奈は喜んでオレと遊んだ。
可愛いタヌキみたいな顔をして、夜の顔は分からないもんだ。
香川は香川で幸せな家庭生活をしているようだし、
まゆりが消えたぐらいで、オレたちに不自由はあるか?
まゆりがいなくても何も変わらない。
まゆりが亡くなって1ヶ月が来る。
私は本当にまゆりと親友だったのか、寂しかったのは悲報を聞いて暫くの間だけ。
警察からの聴取は周りの目があり精神的苦痛だったが、会社を辞めて時間とともに心の痛みは回復していった。
私は冷たい女かもしれないが、生活に追われていると自分自身や家族を切り盛りするのに気持ちへ余裕がなくなる。
これは『時間くすり』というものだろうか。
夫や子どもたちの励ましもあり、次第に負い目が薄らいでいった。
加賀さんは自殺と断定された。
そして俺の通常が戻ってきた。
玲奈は精神的ショックから仕事を辞めたが、
少しずつ笑顔を見せるようになり、
三上は俺に気を遣って昼飯へ誘ってくれる。
三上を巻き込んで悪かったと謝ったが、
「またイベントがあれば誘ってな」
三上らしい言葉をくれた。
「あの事件、自殺と断定されたって」スマホを切り、キンクマに告げた。
「随分、人騒がせな自殺だね」
「加賀さん、42歳だって。更年期障害だったのかもね」
「なに、それ」
「キンクマくん、検索しましょう」
女の人は中高年になると体調の変化が著しいらしく、大変だなぁと思う。
遥香が生きていたら更年期障害になったのかな、
口角を上げて微笑む遥香の遺影を眺めた。
二十話
昨日までの雨が止み、梅雨の晴れ間は朝から暑い。
私は丸の内線を降りて玲奈たちと落ち合い、アジサイ見物に行く。
18年前、披露宴はせず入籍した大樹と玲奈が夫婦で揃うのは、これが初見。玲奈に対する嫉妬心は混雑する土曜日の新宿を意識させない。
不意打ちで私が知った現実は、
玲奈が「パパ」と呼ぶ男は私の全然知らない人。
そして「三上さん」が『大樹』だった。
どういうことなの⁈
アジサイ見物に行く14日前だった。
私は『大樹』といつものようにホテルで逢瀬に更けていた。
大樹は私へ、このお茶を玲奈に渡してあの世へ追いやれば、誰にも疑われずに玲奈はこの世からいなくなる。
玲奈と離婚協議なしで慰謝料を払わなくて済む、と話を持ちかけられた。
大樹と私は18年間の不倫を清算したいと思い、大樹の提案に乗った。
まず、私がストーカー被害に遭っていると玲奈へ相談を持ち掛ける。
玲奈はきっとアドバイスしてくれ、私を気晴らしにアジサイ見物へ誘うだろう。そう大樹が仕組んでおく。
ストーカー被害の証拠は紙袋へ手紙を7通、大樹が工作しておいたので、私は玲奈に相談すること。
そしてアジサイ見物の日、私が気を利かせて自販機でお茶を買う役目をし、玲奈に用意してあるペットボトルを渡すこと。
大樹から、成功したら早く子どもの顔が見たいと言われた。私もなかなか妊娠しないので、大樹の言葉が嬉しくて玲奈を始末することしか考えてなかった。
私は帰宅してすぐ、不審者から手紙が来たように家にあった箱へ、大樹からもらった用紙を入れ、テープを貼るとアパートの玄関へ置いておき、翌日の夕方、さも今日届いたように私の指紋をつけて箱を捨て、用紙も破り捨てた。
それを1週間行い、玲奈へ不審な用紙が来る相談を持ちかけた。
玲奈からは監視カメラを2台購入するようアドバイスされ、私は自分のスマホから注文した。
監視カメラを玄関へ設置し、誰も写ってないことや用紙が来なくなったのを玲奈へ報告すると玲奈から
アジサイ見物の誘いを受けた。
大樹の計画通りだ。
土曜日、アジサイ見物へ向かう。
そして大樹が大樹じゃないことを知る。
しかしここで計画は頓挫させなかった。
私は18年間、大樹だと思っていた男から騙され続けていたのだから、親友の玲奈を恨み続けた年数が私を自責の念へ導いた。
玲奈は私を親友として受け入れてくれた時間。
嫌がらせのつもりで玲奈の病院やアパートへ押しかけ、玲奈が寝付く頃を見計らい電話した時間。
玲奈は私へ嫌な顔や言葉を出すわけでもなく、
真剣に私へ付き合ってくれた。
玲奈は玲奈で自らの幸せを愛する男性と築き、私は騙されているなど知らずに嫌がらせしていた。
「玲奈、今まで本当にごめんなさい」
大樹にとって、私の価値は玲奈を殺害に追い込む道具にしか過ぎなかった。
多分、大樹が18年間、本当に愛していたのは玲奈で、玲奈に振られた腹いせを今晴らすんじゃないか?
お茶は私が飲み、
ここで私が玲奈を守らないと罪滅ぼしにならない。
それにお茶を半分も飲まなければ平気だと思った。
中身は普通の苦味があるお茶で、ドラマや映画で観るような血を吐いて倒れるなどなく、
私の身体に異変はない、また大樹に騙された。
昼過ぎ、お腹を下し頭痛と眩暈がしてきたが生理日前はいつもこんな感じ。
帰宅後、昼寝をしても睡眠が浅い。
でも大樹の夢を見た。
私は赤ちゃんができたと報告して、
大樹は「よくやった!男の子がほしいよ」
私を褒めてくれる。
胸が高鳴り、鼓動が早い。
急激な胃の痛みで、布団から飛び起きてトイレへ向かい嘔吐した。
心拍数は耳まで伝わる大きさで
「妊娠したかもしれない」
夢見るようなあたたかな日々が、
やっと私の手に入る、私は玲奈に粘り勝ちした。
妊娠初期はつわりが酷いと聞く。
吐き気を繰り返し、外の空気が吸いたくなる。
覚束ない足でベランダに立つと身体が後ろへ傾き、ガラス窓にすがって、意識が遠のいていく。
胸が締め付けられそうな圧迫感は、妊娠した証かもしれない。
「早く大樹に知らせたい……」
首元から胸へ、冷たい雨が入る。
濡れたガラス窓で身体は地べたへ滑っていき、
私は暗闇の中へ吸い込まれていった。
完