小説を書くのは辞めようかな②

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この小説は、山根あきらさんとの合作小説です。


あらすじ


 
 30歳を過ぎても、バイトを続けながら作家を目指す三葉亭八起(さんばてい・やおき)と神宮寺凌(じんぐうじ・りょう)。
三葉亭は牛丼屋で働きながら、神宮寺はホストとして働きながら、小説を書き作家を目指していた。
 二人は純文学への憧憬をもっていたが、ある時、神宮寺は三葉亭に理想論を追い求めるより、より多くの人に読まれるラノベを書くと言い出した。一旦は袂を分かった二人であったが…。
 理想と現実との間で揺れ動きながら、作家として成功することを夢見る二人。二人は夢を諦めずに、小説を書き続けることはできるだろうか?
 「小説を書くのは辞めようかな」は、奇数話と偶数話で書き手が変わる合作小説。


 第一話はこちら



小説を書くのは辞めようかな ②

「凌さん、またフォロワーが増えていましたね」
「さすが神宮寺凌だわ」
今夜も店の客がSNSを話題に出す。

「増える?
フォロワーは増やすものじゃない生まれるものさ。
土壌を耕せばベイベー達が生まれてくるんだ」

俺は何を言っているのか、思いつきのワードが気持ちを上滑りする。
こんなものへ言葉は使いたくない。

ホストは学費を払うため始めて既に18年が来る。一度も昼職を経験せず、最近では店の内勤を考えている。

「38歳になるならホストのバイトから店を持つ気にならないか」

オーナーから言われても首を縦に振れない。
小説家になりたい夢をかなえるために、親の反対を押し切り上京した。

親は地元の大学へ入学すれば良いと言ったが、小説家は東京のイメージが強く、どうしても譲れなかった。

ホストといってもアフターはしない、同伴しない。
そういうのもあってか、俺にはミステリアスな印象を持つ女たちが競うように来店する。

店は金を稼ぎに来る場所。
朝はジムに通い、夜はホストとして勤務する。仕事が終わると自転車で離れたファミレスに向かい、そこで小説を書いていた。

一人称もオフや感情が突出してしまえば、俺から僕になるが、今はほぼ俺に変わった。

見た目は垢抜ける、垢抜けしないと客がつかない。
地元の広島にいた頃はブレザーにツーブロックのどこにでもいる高校生が、今やどのSNSもフォロワー数1万人を超え、何回かは店のNo.1まで昇りつめた。

しかし俺がやりたいのはホストを極めるのではなく、小説で飯を食うこと。


たまにアイツを思い出す、三葉亭八起。
真面目で一途な性格は、今も牛丼屋でバイトしているのかもしれないし、真っ直ぐに純文学を書いているはずだ。

これまでの人生でたったひとりの理解者だったが、
既に昔の話。
三葉亭も俺を忘れているかもしれない。



「もしかすると神宮寺凌さんですか?
インスタ、フォローしてます!」

どうもありがとう、軽く頭を下げておく。

喫煙所で創作の続きを練っているときに声をかけられるのが本当は苦手で、ニコチンを肺にインプットし、構想がアウトプットされるのへ声をかけられるのは邪魔。

「凌さん、ラノベ読んでますよ」

ライトノベルに偏見はないが、ラノベと言われるとイラッとする。

少なくとも、ひとりでタバコを吸っているときぐらいそっとしてほしい。

俺はライトノベルを出して、そこそこ売れた。
恋愛モノの小説はホストの経験を活かし、女との駆け引きは上手く書けているようだ。

それでも純文学となれば高い壁があり、俺の評価は独創性がないと突き返される。

地球上の人口分だけ恋愛エピソードがあっても、
俺独自が書けるオリジナリティ。

ホストをやっていれば一般の男より女を見てきて、喜ばせる方法も体得している。しかし、版元から見て個性がない文章は、才能がないと純文学への門前払いに思える。

なんだろう、この虚しさ。
ニコチンを思いっきり吸うと頭がクラっとして、
足元が揺らぐ。

いつまでこんな生活を続け、延々と夜職に身を投じ、SNSで宣伝した電子書籍を販売していくのか分からない。

「獲れるもんなら、タイトル獲りてぇよ」


ファミレスにつき、pcを開く。
最初に確認するのは現在どれだけ電子書籍が動き、それからレビューを読む。

レビューに星5つは嬉しいのだが、読んでないのがよく分かる。

俺の表現がまどろっこしいのもあるし、読者の読解力の問題もある。

曲解といえば曲解だが、創作に書いてないことがレビューに堂々とあってネタバレにもならない。
レビューを参考にして購入した読者は、読後どう感じるのか聞いてみたい。

ネットの電子書籍レビューや掲示板のコメントで、物書きになった頃は心が病んだ。

掲示板のコメントと比較し、まだレビューは言葉遣いが丁寧な分、マシかもしれない。

今日も一件レビューが来ていた。
読んでもらえるので読者に会ってお礼が言いたいのも本音。
「どこを読んでそう思いましたか」
質問してみたいのも本音。

いずれにせよ、有り難い。


これらのチェックを終えたら、すぐに創作へ取り掛かる。
昨日書いた原稿を読み返し、修正を加えていった。しかし、なかなか前に進めずに苦労していた。

不自然な流れだと感じたら書き直す。
一日創作を寝かすと
「普通、こんな会話しない」
どんな会話ならナチュラルなのか、もとより会話の流れが唐突じゃないか、気になり出したらこだわっている。

朝6時半まで集中して書いては読み直し、
「こういう描写じゃないんだけど」
頭に浮かぶ光景に見合う言葉を当て嵌めては消して、しっくりくるまで時間がかかる。

しっくりきたと思えば、読み返すと冗長で、
「これじゃない」

「難しい語彙は使うな、平易な表現で」
指南書にある意味は分かっているが、誰に合わせて困難と易しいを分ければいいのか迷う。

ミミズ文字で書いたプロットを開いて、ターゲット層は10代と定めてあっても、こんな単語の意味がわからない読者が読書をするのが不思議に感じる。

書くのは葛藤。俺のメンタルとの葛藤もそうだし、
内観しながら偏りすぎてしまうなど、
スムーズに5千字書けたら達成感に満たされる。

もちろん書けない日もある。
年齢も四十に手が届くと倦怠感が残り、休みの日は書くのに没頭しようと意欲はあったものの寝過ごしてしまうとモチベーションが上がって来ない。

横になってベッドから動画を観て、気づくと明け方になっていたなどよくあること。
SNSでカッコよく、ストイックな発言をしたツケは代償として出ている。

電子書籍を出し終えて小説の公募がないか探すとき、自分が本当に書きたいことはライトノベルだったのかを自分に問い、もどかしさは後悔に変わる。

「いつ満足できる日が訪れるんだ」

今、俺が書いているのは三葉亭八起と口論になり、自分が言ってしまった言葉を回収していて、自分が自分の呪縛に囚われている自覚がある。

それは日常生活にも出ている。

なにげなくSNSに呟いた格言めいたセリフがバズると、呟きの責任を取るように俺は自分を律してストイックな精神で1日を回す。

腹いっぱいラーメンや回転寿司を食いたいのに食えるのに、ボイルしたパサパサの鶏胸肉とブロッコリーを塩で食い、太客へボトルを開けさせるために飲んだアルコール。身体が怠くてもジムではマシーンをこなすなど、やりたいことより寿命を縮めて言葉の責任を取っている。



三葉亭に言ってしまった言葉は、けして正論じゃない。


公募に出した小説は自信があった。
「最優秀賞に選ばれるかもしれない」

ホストのバイトは続けても堂々と小説家が名乗れる期待があり、まだ見ぬ受賞の先々を思案して、
次作のプロットを考えていた。

俺の小説は優秀賞受賞の一人になり、付いてきた講評へ絶望した。
「神宮寺凌氏の作品はどこか既視感が拭えず、谷崎潤一郎の『痴人の愛』を読んでいるようだ」

俺の実体験を元にした創作に既視感がある。
そういえば前も友人から似たような指摘を受けた。

「お前の小説って、どっか文豪臭くて読んだことがある感じだよな」

幼少期。広島の片田舎に娯楽はあったが読書が好きだった。母親は家に俺が居ないと本屋へ探しにくるほど本を読む子だったと自負する。

文豪達の作品を俺の中でインスパイアしていた意識はなかったが、読書感想文コンクールでは最優秀賞の常連だったので物語の人物になりきり、インストールされていったのかもしれない。

打ちひしがれた気持ちを俺が認めた唯一の理解者である三葉亭に聞いてほしかった。

そのタイミングで珍しく三葉亭から連絡が来た。

二人だけの文芸サークルで、今まで読んできた本を語る。
何も特別なことはない時間が楽しみだった。
三葉亭からの呼び出しに、いつもの対話の延長だろうと思い、タバコが吸えるカフェへ出向いた。

姿勢を正し、首だけを本へ落とす見慣れた三葉亭はカフェには居らず、テーブルに肘をつきタバコの煙が揺蕩う中に見える三葉亭の表情は目に輝きがあった。
何か受賞したのだろうか。

「すまん、待たせて」

俺が椅子を引く。

「私が早く着いただけですよ」

三葉亭のクールさは健在で、心が弾ける歓喜の様子はない、しかし開口一番、
「私の本を探してまで読んでくれた人がいました」

三葉亭は話を進めていくと破顔してゆく。得意げな口調が隠せない。

俺は素直に傾聴すれば良かったが、彼の自論展開に苛立ちがあった。

 私には1つの信念があった。良い作品は必ず陽の目を見る。作家とは、書くことがすべてである。書くことなしには生きることが出来ず、生活の中心がすべて書くことに集約される生き方しか出来ない人。比類にない輝きを放つ作品を書くことに執念を燃やす人。

 なのに昨今の現状はどうか?
 誰でもSNSを使えば、ボタン1つで広く世に作品を発表することができる。たとえくだらない作品であったとしても、マーケティングの知識があれば、ある程度の売り上げを作ることはできるだろう。そして、それを助長するかのようなノウハウさえSNSには溢れかえっている。

(はい、そうですね。全くその通りでございます)

言いやしないが、三葉亭に共感があれど反論はない。

 しかし、私には文学を単なる商品としてしか見ない・考えない作家にはなりたくなかった。売り上げの多寡と作品の価値を同一視している作家は、もはや作家の名にあたいしないとしか思えなかった。作家が商人に成り下がって嬉しいのか?

三葉亭の滑らかな口調は俺への当てつけなのか、癪に触る。

隙のない正論に、「いつまでも青臭いことを言ってんじゃねぇよ」
反発する自分がいた。

三葉亭は、作品が比類なき輝きを放つと言っていた。しかしそれが書けないから苦労しているのだろう。

『執念を燃やす』
俺達は高等遊民じゃないんだ。片手間に書かざるを得ないのを三葉亭は理解しているのか?

放蕩息子が許される環境や女のヒモじゃなければ出来ないことをどうして力説しているのか、余計に頭へ血が昇る。

三葉亭よ、今は令和だと分かって言ってるか?

書いたものを読んでほしい、固定の読者がほしい。あわよくば出版社や書店の従業員の目に止まれば小説家になる夢が叶いやすいツールとしてノウハウへ飛びつくんだろう。

作家が商人へ成り下がるのではなく、手段の一つだ。ここまで批判されるべきことなのか?
三葉亭、お前はそう思っていても固着できない事情を見てみろよ。

お前は後悔しているようで、現実を直視してない言い訳にしか聞こえねぇんだよ。

「いや、今の時代にそんな理想論をかざしてもナンセンスですよ。文学だって売れてナンボですから」

本当に無意識だった。
胸に口が生えてきたように。

「お前、マジで言ってるのか?」

大真面目に言っていますよ。

SNSに課金して承認マークを付け、絵日記みたいに日常を切り売りしながらフォロワーを増産して、
ただの承認欲求を満たす道具に時間を費やすかよ。

物書きをやってなかったら、いくらホストでもSNSはやりたくない。
俺の思考は俺だけのもの、俺の生活は俺だけのもの、不平不満も含めて顔や本名も知らない相手と共有したくない。

三葉亭、お前こそマジで言っていたら、早く昭和や平成初期から令和へ思考そのものをアップデートした方がいいんじゃないか?

目を細め、口を尖らせる三葉亭は恐らく耳を疑っているかのようだ。

こんなときに優秀賞に添えてあった講評が浮かぶ。

(神宮寺凌氏の作品はどこか既視感が拭えず、谷崎潤一郎の『痴人の愛』を読んでいるようだ)

座礁した立ち行かない船に居る俺の気持ちすら、今の三葉亭には届かないと思う。

「君のような理想論を僕ももっていたさ。けれども現実はどうだい?高邁な文学作品を創ろうとしている僕らは、定職にさえ就くことなく、日々アルバイトに明け暮れているだけじゃないか?肝心な小説さえ書けない日がつづいている。端から見れば、僕たちは単なるフリーターでしかない。文学でカネを稼げない僕らは、作家でもなんでもない。ただの理想主義者に過ぎないじゃないか!」

お前、牛丼屋でバイトしているんだろうが。
そして俺はホストのバイトをやって、思い通りにならない燻った年月はどれぐらいだった?

足元を見ろよ。お前に版元とのコネがあるか?
風化して今にも切れそうな吊り橋を歩いているぐらい知ろうよ。

こんな出来事から次第に三葉亭と距離ができた。俺から連絡する気まずさもある。

時間は何本もある下書きした創作を読み返し、書き足す時間へ費やしていった。