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連載: 駄菓子屋ひなた堂の日記④
チリン……。
「気をつけて帰りなさいね」
毎晩、最後にドアベルを鳴らすのは小学生の男の子。近所では有名らしく、私のような店から出ない人間も噂を聞く。
小学五年生の男の子を噂をする人は決まって、彼を心配しており、でも他人にはできる範囲が決まっていた。
児童相談所へ連絡した人もいれば、男の子の父親へ直談判した人もいて、事態はドラマのように進まないのが現実社会なのだと思う。
家に和紗がいた頃、夕餉に男の子の話題になった。
「また、あの子のアパートに救急車と消防車が来ていて。お父さんはアルコール中毒でしょ?
本当は入院したらいいのに」
和紗の言葉はシビアで、私が高校時代には言ってなかった。
「知ってるの?」
「うん、5丁目のアパートに住んでるよ。
高校の帰りに見かけるからね。
あの子、色んな店へ閉店まで居座るんだって。
コンビニや24時間開いてるスーパーは、あの子を出入り禁止にしてるって聞いたよ」
「お母さんはいないの?」
「お母さんいるけど、仕事でいつも家にいないみたい。
何か出来ることがないかと考えるけど、できることがあるとしたら、うちみたいな店があることかもね」
和紗が箸で火の通ったじゃがいもを割りながら、
深刻な面持ちをする。私も味噌汁を啜りながら、あの子について何も話すことがない。
今ごろ、あの子はちゃんとご飯を食べて、お風呂に入っているのか想像してみても、陽だまりのような幸せより、薄暗い部屋で縮こまっている姿しか頭に描けなかった。
「ご馳走様」軽く手を合わせた和紗は食器を流しで洗い始める。
「明日の英検、ママはお弁当を作らなくていいよ。
友達とランチして帰る約束しちゃった」
うんと頷き、和紗がどんどん私の手から離れる実感がある。
「試験、頑張ってね」
食器を布巾で拭く和紗は相当自信があるのか
「大丈夫よ」ピースサインをして見せた。
土曜日。
今日も男の子は昼からうちに来店していた。
アメ玉一つ買うと、フリースペースの隅でお絵描き帳に向かっている。
他の子どもに話しかけられても顔を上げない男の子は、私とも口を利いたことがない。
「いつも絵を描いているんだね、おばちゃんにも見せて」仏頂面した無言で差し出されたお絵描き帳は四コママンガが描かれていた。
マンガは小学生特有の角張った絵で正義が悪を倒す。登場人物は2〜3人いて、男性は正義の味方か、弱者。悪に苦しめられる。不思議なのは毎回『悪』は女性だ。
私は(男性は男の子で、悪はお母さんかな。
お母さんの不在が多いと寂しいよね)と思いながら四コマを読んだ。男の子が何かを訴える眼差しを私はその時、自分の先入観で読んでいた。
和紗にこの話をすると
「小学生が描くマンガだから何かのマンガに影響されたのかな? でも普通、母親が不在で寂しいなら女性キャラを悪に仕立てるのかな。人によって表現が変わるから、なんとも言えないね」
他の子がカードゲームやスマホで遊んでいる光景にポツンと昭和がタイムスリップしたような、目に見えてギャップを覚えながらも黙って見守る。
祥代おばちゃんのボケに、軽快にツッコむヤスさんの会話で、子ども達が振り向いて笑う。
「祥代おばちゃん、そうじゃないよ」
他の子がボケをかまして、笑い声が渦になる。
しかし、あの子だけは違う場所にいるかの如く、一心不乱にお絵描き帳へシャープペンシルを走らせ、誰の声や音も届いていない。誰が声をかけても反応しない、あの子は笑い方を忘れたのだろうか。
誰かの古着を彷彿する、首元が伸びたトレーナーとズボンは学校指定のジャージ。
今日は土曜日というのもあって、男の子だけが無言の悲壮感を漂わせている。