『ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ』~春馬くんの歌う「根性なし‼︎」を鬼リピする
まずこの作品、タイトルからして、私のような(オバサン)世代には何が何だかさっぱりわからないし、あらすじを読んでみても
不死身のチェンソー男?何それ?
女子高生が闘う?何それ?
と、全く興味がそそられなかった。
宣伝ポスターなどに映る春馬くんの写真も小さめだから出演シーン少なそうだし・・・ということで、春馬くんがいなくなってしまったあの夏の日から春馬くん作品をむさぼるように見ていた私ではあったが、この作品にはなかなか手が出なかった。
いよいよ、見られる作品ほとんど見尽くしちゃったし、ということでどこかの動画配信サービスで鑑賞したのはもう2020年も明けてしまってからだったと思う。
初鑑賞では・・・さっぱり意味がわからなかった。
チェンソー男と女子高生の戦いのシーンは苦手なので早送りしてしまうし、そもそも春馬くんを見たいだけなので、ストーリーにも身が入らなかった。
春馬くんが演じる能登という高校生は既に亡くなってしまっている設定だったので、それに「うっ・・・」と胸を突かれながらも、長めの金髪に着崩した白シャツ、腰パンといういかにもひと昔前の不良のいで立ちなんだけれど、それでもやはり超かっこよくて、激情の演技もさすがで、感心したのだけを覚えている。
ここ最近、この作品がいくつかの動画配信サービスで無料視聴できていたので、この際ちゃんと真面目に見てみよう、と見直してみた。
その結果・・・結構深いじゃない、この映画。
思いっきりネタバレなので、未視聴の方はご覧になってからどうぞ。
まずは作品概要から
『ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ』は、2001年に角川書店から発行されている滝本竜彦の小説をもとに2008年1月に公開された映画。
原作小説は、第5回角川学園小説大賞において特別賞を受賞したりと高い評価を得ているらしい。
2002年にはラジオドラマ化もされており、2007年には映画公開に先駆けて漫画化されているそう。
知らなかったけれど、意外と期待値高く公開された映画だったのかも。
あらすじは、こんな感じ。
昨年あたり『チェンソーマン』というアニメが話題になっていたが、チェンソーマン自体が一般的に何かのメタファーなのだろうか?
私の知っているチェンソーマンと言えば、1974年公開のアメリカのスプラッター映画『悪魔のいけにえ』の殺人鬼のチェンソーマンなのだが(もちろん怖がりの私は未視聴だが)、これをモチーフにしているの?
また、映画の大半が美少女戦士である絵理とチェンソー男の戦闘シーンなので、美少女戦士マニアにはたまらないのかもしれない。そのあたりをターゲットにした映画なのかな?
とまあ、2回目見てもやはりクエスチョンだらけなのだったが、春馬くん作品をなんとしても理解したい!という情熱だけで、無料期間中何回も見た。我ながら、すごい春馬愛である。
能登というカリスマ
だいぶだいぶ前の話になるが、息子が幼稚園時代、ある男の子のママがやんちゃする息子さんを見てこんなことを言っていた。
「男って、俺が一番強いってマウント取り合う生き物なんだよね。
そのためには、絶対にひるんじゃいけない。
どこまでも自分の意思を曲げない強さがある者がてっぺんなんだよ。
こんなちっちゃくてもやっぱり男だね~」
あきらかにご自身も若い頃やんちゃだったであろうそのママ友のその発言を当時あまりピンとこなかった私だったのだが、今回この作品をよくよく見ているうちに、十数年の時を経てなんとなく腑に落ちたのだ。
春馬くん演じる能登は、あの映画の中の男子高校生の中でてっぺんを取ったカリスマだ。
どんな時にも、自分の中で一本通っている筋を通す。
不良たちが女の子を巡って決闘するもいつのまにか仲直りしてしまったのは、能登にとっては”妥協”であり”自分をごまかした”ことなのだ。許せない。全然関係ないのに、筋を通せと自ら戦いを挑んでいく。
おしおきで走らされた校庭でも、本気で走る。「やってらんね~よ」なんてスカして逃げたりしない。自分の落とし前は自分できっちりつけるのだ。
能登の最期となってしまったバイク走行も、恐怖心に負けてスピードを落としたりしなかったということ。
その能登の哲学を表したのが、劇中で春馬くんたち3人組のバンド俺さまーズが歌う「根性なし!!」の歌詞。能登が書いたという。
この歌詞の中の”ヤツ”というのは「臆病」「恐怖心」のことなのだろう。
この歌詞のように、どこまで行けるんだろうって、逝ってしまった能登。自分の筋を貫いた能登。
陽介にとって、もう完全に追い越せない存在になってしまった。
筋を通しぬいた能登の死は、陽介にとってもはや憧れですらあった。
チェンソーマンとは
ストーリーが進むにつれ、ヒロインの絵理が、実は交通事故の遺児であることがわかってくる。たった一人、素敵な邸宅に住む絵理。
素敵な室内とたくさんの家族写真に囲まれて、より一層絵理の孤独が際立つ。
事故後から現れたチェンソーマンは、絵理の悲しみや孤独というだけでなく、「死への誘惑」の象徴なんだと思う。家族を突然に失い、絶望の淵に立たされもう死んでしまいたい、と何度も思ったことだろう。でも、それに打ち勝たないといけないことを絵理は本能的にわかっているから闘うのだ。
絵理と陽介が次第に心を通わせ惹かれ合っていくにつれ、チェンソーマンの威力は弱まっていく。
絵理が生きる希望を見出してきたから。
ところが、陽介が父親の仕事の都合で遠方に引っ越してしまうと知り、絵理が再び孤独と悲しみを募らせ「死への誘惑」に引っ張られるとチェンソーマンの威力は再び強大になっていく。
愛する絵理を守り抜き、チェンソーマンに殺されて死ぬーーーそれが唯一能登を超える方法だと陽介は思っている。愛する者のために命を懸ける、これこそ能登の成し得なかったことだと。
”ヤツ”とは、ここではチェンソーマンともいえる。
ここで逃げるわけにはいかない。
決死の覚悟でチェンソーマンに挑み、陽介は、投げつけられて意識を失ってしまう。
夢の中で能登と競い合いながらバイクで並走している。能登が陽介をバイクで追いぬいて走り去ってしまう。こう言い残して。
目が覚めると、チェンソーマンはいなくなっていた。
傍らに倒れる絵理を抱きかかえ、陽介は天を仰ぎ泣きながら叫ぶ。
絵理と陽介は、「死の誘惑」に遂に勝つことができたのだ。
この映画のキャッチコピーが
であるのを気が付いたのは、つい2、3日前の事。
絵理のように生きる辛さから「死への誘惑」に囚われる人もいれば、陽介のように憧れから「死への誘惑」に引っ張られる人もいるのだろう。
なんとなく死にたがる・・・その死というものへの誘惑、それがチェンソーマン。
それは、闘うべき相手。打ち負かさなければいけない相手。
それが、この映画の真髄なんだな、きっと。
それにしても、このキャッチコピー、今となると辛すぎるよ。
俺さまーズ「根性なし!!」を鬼リピする
映画全編も数回見直したけれど、とりわけ俺さまーズの「根性なし!!」のバンドシーンだけ何度も何度もリピートして見たことをここに告白する。
映画の後半、陽介が耳を傾けたラジカセからカシャカシャと聴こえてくる演奏と共に、あの声が語るように歌い出す。
鬱屈した葛藤を、投げかけてくる。
最初は、誰が歌っているのかわからなかった陽介も、次第に声の持ち主が誰か気が付いた。
とここで、画面が一瞬光に包まれ、曲調が一変する。
暗い体育館に浮かび上がる楽器を演奏する陽介、渡辺、能登。
金髪の能登がエネルギーを放出させ声を張り上げて訴えかけてくる。この瞬間から、見ているこちらも鼓動が高鳴ってくる。
疾走感あるメロディ。時折、首を振りながら歌う能登。
この合間に、能登の生きざまがフラッシュバックのように映し出される。
けんかをする能登。楽しそうに俺さまーズのTシャツ着てノリノリの能登。先生にチューされてぶっ倒れる能登。バイクで疾走する能登。
曲はここで終わるかと思えば、曲のトーンが落ちて、回顧的に少し寂し気に能登が歌う。
このメロディと能登の表情で、とてつもなく切なくなる。涙が出ちゃうときもある。
それなのに、何度も見たくて鬼リピしてしまう。
もう、能登じゃなくて春馬くんと完全に重なってしまうんだよね。
のちの、春馬くん自身のシングル「Fight for your heart」とも「Night Diver」とも違う。
もちろん、ローラの歌声とも違う。
荒削りに、ほとばしる情熱を発散させながら、一生懸命に歌う声が、姿が、余計に私の胸を締め付ける。
これ、こんなに切ない映画だったっけ?
終わりに
最初はこの映画のポスターを見た時、「春馬くん、出演少なそうだからな」なんてスルーしていたけれど、こうやって真面目に真剣に見ていくと、春馬くんこそ重要な物語の核といってもいい役どころだとわかった。
能登は陽介の羅針盤だ。
どうしたら能登のようになれるのか、と、そればかり考えて過ごし、いつの間にか「死」さえも憧れてしまうけれど、最後にその陽介に「生きろ」と示唆したのも能登。
私にとっても、今や、春馬くんは羅針盤になっている。
春馬くんならどうするかな、春馬くんならどう思うかな、って。
そして、春馬くんは、それぞれの作品の中から、私に「生きろ」と訴えかけてくる。
『ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ』、すごくいい映画だった。
ちょっと切ない記事になってしまったかもしれないけれど、この映画、わけわからなくてスルーなさってる方、きっと多いんじゃないかな。
これ読んで、一人でも多くの方が観て下さるといいな、と思っての18日。
明日は、関東では春一番が吹くらしいね。
また、桜の季節がくるね。