『ドライブ・マイ・カー』~解けない謎を抱えて生きていく
もともと村上春樹は割と好きでその小説を原作とする映画が公開される、というので気になってはいた。『ドライブ・マイ・カー』。
さらに、第94回アカデミー賞作品賞、監督賞、脚色賞、国際長編映画賞にノミネート、というニュースを聞き、これは観に行かねばという気になった。その前に、原作小説を読んでおこう、と思い入手した。
この短編小説集の中の一作目が「ドライブ・マイ・カー」だ。この短い小説を3時間の長編映画にしたの?!どこをどれだけ膨らませたんだろう!?と思いながらも、とりあえずその一編だけ読んで映画館へ向かった。
短編集「女のいない男たち」のいくつかの作品の融合
映画を観ている最中は、原作小説「ドライブ・マイ・カー」には無い展開が多くあり、ああ、この映画は村上春樹の原作からインスパイアされた濱口竜介監督が作り出した全然別物の作品だなと思った。
が、その後すぐに「女のいない男たち」の全編を読むことによって、この短編集のいくつかの小説の要素を融合し、「ドライブ・マイ・カー」だけでは曖昧になっている起承転結の”結”部分を導き出した映画になっていると思った。改めて濱口監督の村上春樹へのリスペクトを感じた。
前述したように、映画では「ドライブ・マイ・カー」という短編の他に同じ短編集の中の「シェエラザード」と「木野」という短編の一部を包含している。
主人公家福の妻音が性愛のあとに語る強烈な寝物語は「シェエラザード」からの引用であった。これにより「ドライブ・マイ・カー」からだけでは思い描けない音のイメージがより性的に濃厚になった。
家福が音の情事から目を逸らし喪失に向き合わずに生きてきた姿は「木野」からの引用であった。これにより苦悩の出口へと導かれることになる。
舞台「ワーニャ伯父さん」がもたらす独特の世界観
本映画では、原作小説で少しだけ出てくるチェーホフの「ワーニャ伯父さん」の部分を膨らませ、そのオーディションから本番上演までの過程を描いている。この舞台「ワーニャ伯父さん」にまつわる一連の描き方がこの映画に独特の世界観を作り出していて、それがとても印象的だった。
家福が監督を務める舞台「ワーニャ伯父さん」は、普通とは一風趣が異なっている。
・多国籍の演者同士が母国語を使う多言語劇であること
・多言語の中に手話が含まれること
演者同士がお互いの母国語で会話する多言語劇は、言葉が通じないからこそ声や表情や身体表現といった、言葉の意味以外のコミュニケーションにフォーカスしながら演じることになる。そうであれば、伝達手段は言語である必要性はなく手話でももちろん成り立つわけだ。そして、この手話が映画全体に美しい静寂を生み出し、本作の魅力の大きな要素を成していると感じた。
また、稽古風景もこれまた変わっている。一切の感情を排除し無感情に何度もセリフのみ読み合わせするのだ。
その無感情のセリフ稽古をなかなか上手くできない、キャストとして参加しているかつて音の情人だった高槻と家福の絡み方が興味深かった。熱を持っている高槻と冷静な家福。その間には今はいないはずの音の存在が感じられるような気がした。
解けない謎を抱えて生きていく
私なりに、この作品を通して受け取ったものを述べてみたい。
「ドライブ・マイ・カー」では、愛する妻の喪失の苦悩と共に、家福を苦しめる謎がある。
家福と妻音は、愛し合い理解し合い夫婦としてとてもうまくいっていた。だが、音はこれまで何人も家福以外の男性との情事を繰り返していた。家福は最後まで妻の情事について見て見ぬ振りをし続け、その理由がわからないまま音は病気で逝ってしまった。
いつまでも解けない謎。何故、俺以外の男に抱かれなければいけなかったのかーーー。何故、何故?俺達、うまくいっていたじゃないか?
この謎に関しては、原作小説でも映画の中でもその謎は解けていない。
回想シーンなどから、読み手や観客は自分なりの見解を持つことはできる。
子供を失った喪失感が妻を情事に走らせたか?
脚本家としての創作のために秘めた情事が必要だったのか?
夫が自分の情事に気づかない振りをしている、その寂しさを情事で埋め合わせていたのか?
それとも、単なるセックス依存症だったのか?
結局、いくら考えても、誰かが何を言おうとも、音本人から明かされなければ真実はわからないのだ。そして、音を失った今、もうそれは叶わない。
中盤、自分は妻を理解できていなかったのではないか、と言う家福に、高槻が言うセリフ。
私も、人生の折り返し地点を過ぎて思うのだ。生きていると、どうしても解けない謎に出会ってしまうものである。
その謎を解こう、解こうと必死になるのはとても辛く、それでも解こうとするのが人間であり、その試みは出口のないトンネルの中を彷徨うようなものなのだと思う。
そのうち次第にわかってくる。この謎は解けない、ということに。ひとの心をそっくり覗き込むことはできない、と。浮かんでくる”解”のように見えるものは”憶測”でしかない、と。真実はもうわからない、と。解けない謎と共に、それを抱えながら生きていくしかない、と。
人生とは、解けない謎を抱えながら、このセリフのように自分自身を深くまっすぐ見つめ、それでも自分の心と上手に折り合いをつけながら生きること。
そうやって生きていくと、いつしか、その解けない謎に出会った理由が、その解けない謎が自分にもたらしてくれた物が見えてくるのではないか。
原作にはないが映画では、みさきの故郷の北海道の地で、それぞれの傷をまっすぐに見つめる家福とみさきがいた。
終盤の多言語劇の本番舞台上で、ソーニャが家福演じるワーニャ伯父さんに手話で語る部分は、うる覚えであるがこんな感じだったと思う。
それを客席から見るみさき。両親の愛に恵まれなかったみさきは、この場面で自分の心に折り合いがついたのだと、ラストのみさきの姿を見てそう思った。
これが私が受け取ったもの。
私自身、解けない謎を抱えているので・・・。
また、いつかもう一度この映画を観てみたい。そしたら、その時はどんな風に感じるのだろうか。