ストロング小林が逝去〜日本人対決が話題だった頃
新日本プロレスの最大イベント、「WRESTLE KINGDOM 16 in 東京ドーム」が終了、オカダ・カズチカが鷹木信悟を下し、IWGP世界ヘビー級王座を奪還、翌日オスプレイに勝利し、防衛も果たした。
今のプロレスでは、日本人同士の試合は普通に行われているが、昔はそうではなかった。そんなことを、ストロング小林の訃報を見ながら思い出した。
私がプロレスを見始めた頃、メジャー団体は日本プロレス。ジャイアント馬場とアントニオ猪木が揃っていた時代だ。試合の構図は、日本人vs外人レスラーで、日本人同士の対戦はなかった。子供心に、そういうものなのだと思っていた。
もう一つの団体は、豊登、グレート草津らを擁する国際プロレス。日本人レスラーの魅力を劣るものの、ビル・ロビンソンという目玉外人がマットに上がった。こちらでも、日本人対決はなかった。
その後、猪木は日本プロレスを出て、1972年新日本プロレスを設立する。そして、小林が国際プロレスを脱退し実現したのが、1974年の猪木vs小林だった。
小6の私は、力道山vs木村政彦以来、20年ぶりの日本人対決に興奮し、やっぱり猪木は新しいことをやると、私の猪木贔屓が確立した。
実は、前年、国際プロレスにおいて、ラッシャー木村vs小林の日本人同士の世界戦が実現していたのだが、猪木vs小林のインパクトが強烈すぎた。
この小林戦以降、猪木にとっては日本人対決が一つの売り物になり、大木金太郎、小林退団後、国際プロレスのエースとなっていたラッシャー木村との対決が繰り広げられる。
後年、馬場から外人レスラー招聘のルートを妨害された、新日本プロレスの苦肉の策でもあったことが分かるのだが、タブーを打ち破った日本プロレス界の大きな転機であったことは間違いない。
ストロング小林、ご冥福をお祈りする
献立日記(2022/1/9)
牛肉とほうれん草のオイスターソース炒め
あん肝
野菜サラダ(和風ガーリックドレッシング)