立川談春独演会@有楽町朝日ホール(その2)〜“これからの『芝浜』編“
(承前)
前週に続いての立川談春。これで今年の落語・演芸ライブは終わり(のはず)。
ちょっと書きづらいのは、談春が「つぶやかないで」と言っていたので。「大幅に変わるかもしれないし」とも。私が行ったのは12月13日の夜、東京公演は終了したので、もうよいかと。ネタバレなので、大阪行かれる方などは、ご注意を。
公演パンフによると、<芝浜という演目のテーマは私にとっては「許す」とは何かという一点だと今年決めた>。また、<師匠から、そして今までの己れから「離れる」ことをテーマ>としての公演です。前週の「いままでの芝浜」から、どう変化するのか。
一言で言うと、「談春の芝浜」であり、「シン芝浜」だった。
冒頭、勝五郎が何故仕事に行かないかが表現される。それは、将来に対する迷いであり、私なりに「談春の芝浜」から感じたのは、“「幸福」とは何か“についての迷いである。
前回、「芝浜」の問題点の一つとして、「勝五郎は本当に改心できるのか」を挙げた。談春は、ここで勝五郎の問題を明らかにし、“迷い“がなくなれば〜そのきっかけは「革財布を拾った夢を見た」という“非現実“を実感すること〜“現実“に戻ることである。
そして、勝五郎の妻〜落語の世界では賢女と言われた彼女に、“お浜“という名前を持たせる。さらに、彼女の過去を明らかにすることによって、「夢だったのだ」とする嘘の力に、その説得力と反作用としての悔恨を描く。
さらに、「大家さん」の存在も前面に出し、「許し合う夫婦」という特異な存在に対して、第三者の目線を差し込むことによって、噺の“臭み“を抜いている。
もう一つ、前回指摘した「芝浜」の問題点。素面の時の行動を、その後酒を飲んだからと言って夢だと思わせることができるのか。その一つの解は、“いままでの“でも演じてきたお浜の迫力なのだが、私はずっと、「勝五郎は妻の説得に乗っかったのではないか」と考えてきた。嘘だと分かりつつも、本能的に自分の人生の岐路感じた勝五郎が、妻の方便を意識的に信じ込んだのではと。
談春のアプローチは少し違っていたが、お浜の告白の場面は、“これからの“方を断然よしとする。 勝五郎は妻の告白に対し、「嘘だと知っていた」として許す。そして、酒の場面になるのだが、“これからの“は大きく変化していた。勝五郎は酒を呑み、ドラマは元日まで続く。
もちろん、出来たばかりの“これからの“であり、冗長に感じるところはあって当然である。おそらく、“これから“進化していくのだろう。
進化しかない。「談春の芝浜」は、師匠からそして過去から完全に「離れ」たのだから
なお、開口一番、立川こはるは「だくだく」。談春の一席目は「あえて演った」と語った「除夜の雪」