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芸歴四十周年「立川談春独演会2024年」7月27日昼〜現実世界と落語の“陰陽“

東京では今年の1月からスタートした、立川談春の芸歴四十周年を記念した独演会シリーズ@有楽町朝日ホール。3公演に1回のペースで参加しているが、今月は27日の昼公演。出し物は「景清」と「妲己のお百」。

「妲己のお百」は2年前に聴いているのだが、談春の「景清」は初めてなので、この公演を選んだ。

これまで一席目は当日の「お楽しみ」で、ネタ出しなしなのだが、登場した談春「落語はやりません、お話をします」。最近の身辺での出来事を話したのだが、内容については“ポスト“禁止ということなので、ごめんなさい。

一旦引込み、羽織を着て再登場。今日は“目暗“の話とし、「差別用語になっているが、もともとは目の見えないことを婉曲的に“暗い“と表現したもの」とするので、てっきり後半に演ると思っていた「景清」を前に持ってくることが分かった。

八代目桂文楽の話に。「文楽は持ちネタは20程度と厳選していたが、盲人の話が四つも入っている」と紹介した。その一つが「景清」、他には「心眼」「大仏餅」「按摩の炬燵」。

“景清“という演題は、平景清から来ている。歌舞伎でお馴染みの「阿古屋」の彼氏で、「源氏の世は見られぬ」と自らの目をくり抜いて寺に奉納したという伝説があり、同名の能曲目では盲人として描かれる。

元は上方落語で、桂米朝枝雀が演じており、上方版では“景清“の逸話もクローズアップされる。桂文楽に代表される、東京バージョンの印象は、上方の(良い意味での)“くどさ“がなくなり、すっきりとした江戸前の形である。談春もそれを踏襲し、ある種人情噺のようにハッピーエンドへと導いていくが、話を豊かに作り込んでいるように感じる。。

腕の良い木彫師・定次郎、盲目となってしまうが、旦那の勧めで観音様に願掛けをする。日参する定次郎の運命やいかに。そんな物語である。もう少し言うと、希望と信仰である、自らの力が届かないところ希望は信仰なのだ。

中入り後に演じたのは、「景清」とは180度違った味わいの一席「妲己のお百」。“妲己“とはなど、2年前の公演の記事をご参照いただければと思うが、今回も1時間を超える長講。私の持っている立川談志の音源では半分以下の長さである。

ディテールの描写が凄い。特にクライマックスに至っては、ここまで演じるかと思わせるような迫力。怪談噺「これじゃあ、怨念が残るよなぁ」と思わせる。照明も演出の一つ。

この二席を聞いて、落語の幅の広さ、談春の芸の多彩さを改めて感じる。「景清」は、“陽“あるいは理想・希望といった、人が進んで行きたい世界を表現しているとも言える。一方の「妲己のお百」は、どうしようもない“陰“の部分である。現実社会というのは、残念ながら両方で成り立っている。

談春からのこの日のメッセージ、「景清」「妲己のお百」というカップリングに込めたテーマは、現実社会の二面性だったように思った


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