観世音菩薩普門品第二十五⑩【はじめての法華経】vol.18
【はじめての法華経】は、私が法華経を少しずつ読んでいく過程を報告するコーナーです。(マガジンはこちら)
現在、『妙法蓮華経』「観世音菩薩普門品第二十五」を少しずつ読み進めております。
さて、前回読んだ部分は、観世音菩薩の「三十三身」が説かれ始めたところでした。まず、第一身は「仏」でしたね。
今回は、第二身と第三身について説かれる部分を読んでいきましょう。
応以辟支仏身。得度者。即現辟支仏身。而為説法。
辟支仏の身を以て得度すべき者には、即ち辟支仏の身を現じて為に法を説き、
【現代語訳】
辟支仏の説法をきっかけとして悟りを得るべき者には、たちまちのうちに辟支仏の姿で現れ、その衆生の為に法を説き、
応以声聞身。得度者。即現声聞身。而為説法。
声聞の身を以て得度すべき者には、即ち声聞の身を現じて為に法を説き、
【現代語訳】
声聞の説法をきっかけとして悟りを得るべき者には、たちまちのうちに声聞の姿で現れ、その衆生の為に法を説き、
「辟支仏」と「声聞」が出てきました。どちらも、「仏」や「菩薩」に比べると、聞き慣れない言葉なのではないかと思います。
第二身:辟支仏
「辟支仏」とは、師を持たずに悟りを得た人のことを指します。サンスクリット語では、「プラトイェーカ・ブッダ」と言います。「辟支仏」は音写した言葉であるとのことです。
ほかに、「縁覚」とか、「独覚」という翻訳語(意訳)もあります。この場合は、「ブッダ」を「仏」ではなく「覚」と訳していますね。日本人のわれわれからすると、「ブッダ」=「お釈迦さま」「仏さま」というイメージが強いですが、そもそも「ブッダ」というのは「目覚めた人」という意味であり、「覚者」と訳されることもあります。
「縁覚」と呼ばれる理由としては、「「縁起」を悟ったから」という説と、「さまざまな縁によって悟りを得たから」という説があります。
「独覚」と呼ばれる理由は、文字通り、「独りで悟るから」です。僧侶の集まりである「サンガ」に属していないんですね。
いずれにせよ、このとき言われている「悟り」は、お釈迦さまの悟りとイコールではなく、「阿羅漢果」と呼ばれる悟りを指します。これは一般の修行者が到達することのできる最高の悟りの境地です。
第三身:声聞
「声聞」というのは、「お釈迦さまの説法を聞いた人」という意味で、具体的に言うと「お釈迦さまの直弟子」です。
サンスクリット語では「シュラーヴァカ」と言い、「声(教え)を聴く者」という意味なんだそうです。だから「声聞」と訳されたんですね。
以前【仏教用語解説】にて、お釈迦さまの著名な直弟子10人を指す「十大弟子」をひとりずつ紹介しましたが、この10人もすべて「声聞」ということになります。
あなたは誰の導きで仏道に入るのでしょうか
いかがでしょうか。あなたは、「辟支仏」の導きによって仏道に入る人ですか?それとも、「声聞」の導きによって仏道に入る人でしょうか。
「辟支仏」と呼ばれる人については、「かの有名な○○辟支仏さま」という感じで紹介できる方がいらっしゃらないんですよね。多分、山や森のなかに入って、ひとりで修行して悟られるので、「知られることがない」のでしょう。
でも、想像してみてください。偶然迷いこんだ静かな森の奥で、人知れず悟りをひらいていた一人の修行者に出会ってしまったら…もう、それだけで運命を感じて信心がおこってしまいそうです。
「声聞」はもう少しイメージしやすいですね。特に、「十大弟子」に名前があがっているような有名な声聞の方々については色々なお話が残っています。そういうお話を読んでみると、「この方のお説法を聴いてみたいな」と思える方が見つかるかもしれません。
何より、そのお方が直接聴いてきたお釈迦さまのお言葉を、「私はこのように聴きました、お釈迦さまがおっしゃるには…」という感じで、教えていただけるわけですから、感激してしまいますよね。
なんだか、想像をふくらませて盛り上がってしまいましたが、観音さまの「三十三身」はまだ30身も残っています。気長に、ひとつずつ、楽しんで読んでいきましょう。
◇◇◇
今回の記事は以上になります。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
次回もお付き合いいただければ嬉しいです。
それでは、また。